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(30)
シーボルトの娘「楠本イネ」~6
補足「石井宗謙」
石井 宗謙(いしい そうけん)
寛政8年(1796)~文久元年(1861)
江戸時代末期の医学者。
美作国真嶋郡旦土村の医者の子として生まれる。
15歳の時父を亡くすもののそのまま医学を修めた。
文政6年(1823)から長崎に渡り
シーボルトの鳴滝塾でオランダ語を学ぶ。
師シーボルトから『日本産昆虫図説』や
『日本産蜘蛛図説』『鯨の記』などの蘭訳を命ぜられるなど、
語学力に優れていた。
シーボルト事件後も長崎に逗留したが、
後にふるさとにもどり開業した。
天保3年(1832)美作勝山藩の藩医に就く。
その後藩医を辞し、備前国岡山で開業。
弘化2年(1845)から二宮敬作の勧めもあり、
師シーボルトの娘、楠本イネを預かり
産科医としての技術や知識をおよそ7年に渡り教える。
嘉永5年(1852)イネは長崎で長女高子を産む。
嘉永6年(1853)江戸に赴き
再び勝山藩に藩医として働き
外国語の知識を買われて、
幕府の通詞、外国文書の翻訳者の職を得る。
安政4年(1857)の江戸神田の種痘所開設に
参加、協力をしている。
古美術崎陽HP
シーボルトの娘「楠本イネ」~6
補足「石井宗謙」
石井 宗謙(いしい そうけん)
寛政8年(1796)~文久元年(1861)
江戸時代末期の医学者。
美作国真嶋郡旦土村の医者の子として生まれる。
15歳の時父を亡くすもののそのまま医学を修めた。
文政6年(1823)から長崎に渡り
シーボルトの鳴滝塾でオランダ語を学ぶ。
師シーボルトから『日本産昆虫図説』や
『日本産蜘蛛図説』『鯨の記』などの蘭訳を命ぜられるなど、
語学力に優れていた。
シーボルト事件後も長崎に逗留したが、
後にふるさとにもどり開業した。
天保3年(1832)美作勝山藩の藩医に就く。
その後藩医を辞し、備前国岡山で開業。
弘化2年(1845)から二宮敬作の勧めもあり、
師シーボルトの娘、楠本イネを預かり
産科医としての技術や知識をおよそ7年に渡り教える。
嘉永5年(1852)イネは長崎で長女高子を産む。
嘉永6年(1853)江戸に赴き
再び勝山藩に藩医として働き
外国語の知識を買われて、
幕府の通詞、外国文書の翻訳者の職を得る。
安政4年(1857)の江戸神田の種痘所開設に
参加、協力をしている。
古美術崎陽HP
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