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シーボルトお抱え絵師
「川原慶賀」~3
その後もシーボルトの後任となった
ハインリヒ・ビュルガーの指示の元、
同様の動植物画を描いた。
しかし、天保13年(1842)、
オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に
当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)
と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。
これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、
江戸及び長崎所払いの処分を受けた。
長崎を追放された慶賀は、
長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬に居住
脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち
5枚に慶賀の落款があり、
50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。
また、この頃から別姓「田口」を使い始めたと言われる。
古美術崎陽HP