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補足~10
良沢が跡を継いだ中津藩士前野家は
二百石ないし三百石の家柄であった。
福岡藩黒田家四十七万石に対し、
中津藩奥平家は十万石である。
福岡藩で三百石は中級家臣だが、
中津藩では感覚的には上級に属した。
福沢諭吉は奥平藩士千五百名を上下に分かち、
医師を「上等」に数えている。
諭吉によれば上等は藩士の四分の一、
下等は四分の三ということになる。
中津藩主第五代奥平昌高は
薩摩藩主島津重豪の二男、
福岡藩主第十一代黒田長溥は同じく重豪の十三男。
実の兄弟で、ともに父重豪の影響を受け、
蘭癖大名に数えられたほど、
西洋の文化にあこがれた人たちであった。
福岡藩と中津藩はよくよく縁がある。
古美術 崎陽
長崎の歴史
良沢が跡を継いだ中津藩士前野家は
二百石ないし三百石の家柄であった。
福岡藩黒田家四十七万石に対し、
中津藩奥平家は十万石である。
福岡藩で三百石は中級家臣だが、
中津藩では感覚的には上級に属した。
福沢諭吉は奥平藩士千五百名を上下に分かち、
医師を「上等」に数えている。
諭吉によれば上等は藩士の四分の一、
下等は四分の三ということになる。
中津藩主第五代奥平昌高は
薩摩藩主島津重豪の二男、
福岡藩主第十一代黒田長溥は同じく重豪の十三男。
実の兄弟で、ともに父重豪の影響を受け、
蘭癖大名に数えられたほど、
西洋の文化にあこがれた人たちであった。
福岡藩と中津藩はよくよく縁がある。
古美術 崎陽
長崎の歴史
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