古美術 崎陽

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幕末の長崎で活躍した人~大浦慶

2010-03-06 13:55:10 | 長崎の歴史

「大浦慶」

(5)


エピソード~2



幕末に海外へ密航しようとした人は、

吉田松陰を初め、たくさんいる。

だが女性となると、あまり思い浮かばない。

長崎の大浦お慶は、その中で異彩を放つ。

密航後、大貿易商になり、維新の志士を支える女傑となる。

事実確認の資料は無いが、まことしやかに語られている話。

ちょうど浦賀にペリーが来航し、

長崎にもロシアのプチャーチンが軍艦を引き連れて来航。

世相は大きく動いていたとはいえ

そのために海外視察を決行したことは大胆極まりない。

大きな箱に身を隠してオランダ船に乗り込んだのだった。

そして訪れたのは、上海にインド。

この時代に商機ありと命懸けの試みを行ったことは感嘆の一言。

そして無事帰国すると、テキストルに託して

肥前の嬉野茶の見本をアメリカ、イギリス、アラビアの3国に送る。

35カ月後に巨額の注文が舞い込む。

とても、調達できる量ではない。

しかし、お慶は諦めずに九州一円を走り回り

6000キロほどをかき集めてアメリカに輸出する。
  
おかげで九州はお茶の一大生産地へと発展した。

また、自宅の裏に製茶所や製茶工場をも建設している。



長崎におけるお茶の歴史は古く、

平安時代末期、遣唐使の時代に

禅僧・栄西が大陸から平戸の地に

禅とお茶を持ち帰ったのがはじまりで、

それらが後に本格的なお茶の栽培として、

全国各地に広まったといわれている。
 
特に15世紀に釜煎りによる製茶法が西九州に伝えられると、

東彼杵町で盛んに栽培されるようになり、

その後、元禄年間(1688~1704)に

大村藩主の奨励によって栽培が拡大し、

茶業の基礎が作られた。

日本茶が海外へ輸出されたのは、

平戸に来航したオランダ東インド会社によって

ヨーロッパに向け船積みされたのが最初で、

鎖国時代、唯一の窓口だった長崎から

オランダ人によって日本茶が世界へ伝わっていった。
 
そして、幕末から明治にかけては、

九州各地の釜煎り製玉緑茶が集められ、

長崎から盛んに輸出された。

お慶は、海外へ見本を送るという当時では斬新な発想と

等級別に梱包するという細やかな心配りを持っていたようだ。

お慶の茶貿易の成功のお陰で九州の茶業は発展する。


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