天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

御嶽海とは勇壮な名前

2018-07-21 07:56:42 | 自然

御嶽山の湖「二ノ池」

御嶽海が十両で活躍していた頃うかつにも注目していなかった。
郷里伊那の友人に「御嶽海、凄いな」といわれて「それ、誰?」という始末であった。友人は御嶽海が木曽の上松町出身であること、強力な押し相撲であることなどぼくに説明した。
「えらい勇壮な四股名だな。山に海かよ」と言って友人と笑った記憶がある。

伊那に近い木曽出身の御嶽海をそう応援していたわけではない。ぼくは自分の出た学校や郷里をとくに贔屓する気持ちが人より少ない。歌手三沢あけみが伊那出身でもその歌唱がそう好きでないので肩入れしない。学校や郷里が同じということより自分の趣味や世界観に合うか否かが大事なのだ。
御嶽海は強いのだが7連勝して一つ負けるとだだーっと敗け続け千秋楽でやっと8勝するということもあった。それに横綱に勝って下位力士に簡単に負けるというのもおもしろくなかった。
けれど今場所はそれを払拭した。まさに四股名に恥じない相撲取りに脱皮した。豪栄道戦で見せたように劣勢を逆転する一瞬のひらめきもある。大関も近いのではないか。だんだんぼくが好むような相撲を取るようになってきた。

そこで木曽の御嶽山に海(湖)があることを思い出した。
御嶽山は火山で大噴火したことは記憶に新しい。噴火する前、御嶽山へは何度も登った。地図をみると一ノ池から六ノ池まである。ぼくが行ったとき二ノ池に水があるだけでほかは埋まっていたように思うが、二ノ池のコバルトブルーは美しかった。向こう側に雪が残っていてちいさな雪渓。それがなだれ落ちて水が音を立てて飛び散ったことを思い出した。
これぞ「御嶽海」の迫力であった。
あの二ノ池はいまどうなっているのか。見に行きたくなった。

木曽谷は山深い。島崎藤村は『夜明け前』を「木曾路はすべて山の中である」と書き出したくらいである。
伊那節に「木曽へ木曽へとつけ出す米は伊那や高遠の伊那や高遠のお蔵米」という詞がある。当地は米をつくれる田がほとんどないので、米を伊那や高遠に頼っているという意味である。米を伊那から木曽へ運ぶルートを歩いたこともある。
伊那の人は木曽に対してうちのほうが開けているという優越感はあったであろう。
その木曽、御嶽海の故郷の木曽と御嶽山はどうなっているのか、あの二ノ池に水があるのか、行って確かめたくなってきた。
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わが生涯の極暑三日

2018-07-20 13:29:29 | 身辺雑記
 背後が八ヶ岳連峰


キレット小屋


自分の経験した暑さの経験について。
若いころは山へ毎年登ったのでだいたい暑かった。その中でいちばんと感じたのが、1995年7月のキレット小屋であった。
小生が44歳、二男が13歳。二人で八ヶ岳全山縦走を試みた。北の蓼科山から入り、双子池を通り、横岳、縞枯山、麦草峠、丸山、中山、天狗岳、根石岳、硫黄岳、横岳、赤岳ときて急降下して三日目の昼、キレット小屋に至りここで昼飯を食った。
さて歩こうと思ったが暑さにびびる。目の前に権現岳がそびえている。暑さで頭がガンガンするが深呼吸を何度かして登る意思を結集した。ザックを背負い立ちあがるまでがたいへん。立ちあがるとまた気力がわいた。息子が暑いともなんとも言わずに犬のように付いてきたことを内心褒めた。


夏、海外旅行もけっこうした。
入社10年目のことだから1983年であったか、12月にボルネオへ旅した。小生32歳か。友人の慰問である。

 
海外青年協力隊に入ったМは当時、ボルネオから朝日俳壇へ投句してしばしば入選していた。Мに興味を持って文通すうるちにボルネオへ行く気になった。彼が案内してくれるという。
北緯7度のサバ州は暑かった。当地はよく停電するのでろうそくが必需品であった。Мがぼくが野趣を好むとみて、むかし人食い人種であった村へ連れて行ってくれた。そこで野牛を見ながら飲んだり食ったりして帰ると、彼の部屋のろうそくがくにゃくにゃ倒れていた。
村人はコカコーラのようなものをさかんに飲んだ。ぼくは椰子の水が冷たくて最高にうまいと思った。椰子をさしてあれを飲ましてくれと何度もマレーシア語(インドネシア語も一緒だっだか)で訴えたが通じないもどかしさ。
あんなにうまい自然の水に興味を持たないことに文化の差を痛烈に感じた。
昼の暑さは動くことができぬほどだが夜はたぶん20度ほどになっただろう。すやすや眠れた。むろん当地にクーラーなどない。天井のヤモリがときどき顔に落ちてひやっと涼感があって気持ちよかった。
まぐはへばしきりに落つる守宮かな





テヘランの子どもたちと

もうひとつ海外旅行から。2002年8月中旬、イランへ行った。
前年トルコへ行きイスラムに興味が湧きスンニ派とは違うシーア派にさらに興味を持って、イランへ入った。
できるだけ中近東の人間に見えるよう3ヶ月髭を伸ばして当地の男のようになったつもりが、すぐに「やあ、ヤーポン」といわれてがっかりした。
首都テヘランの北にけっこう高い山脈がありそれがぜんぶ岩や砂で一木一草もない。テヘランの駅でバスを待っていたときの暑さは名状しがたい。屋外なのに死にそうであった。外を行く男たちはみな無帽である。
褐色の大地の民には暑さでは絶対勝てないと感じたのであった。彼らが水を飲む光景もあまり見ない。宗教の違いもあり別の世界を生きている人々と感じた。
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眞子さまに白蓮の気概ありや

2018-07-19 15:05:13 | 世相


「週間文春」7月26日号を買ってしまった。

小室さんは「夢追い人なの」美知子さまのお嘆きと眞子さまのNY行き

なる見出しに惹かれて。
要するに記事の内容は、皇后が孫の眞子さまの付き合っている小室圭氏が夢はあるが実がないと心配していること。そのさいたるものはニューヨークの法律学校へ通うということ。お金はいったいどうするのか。小室氏の母は400万円を返してもいないのに。
将来はどうなるのか。生活の見通しは? けれど眞子さまは相変わらず小室氏にお熱でニューヨークで密会する可能性がある。
そういう記事である。
はじめはおめでたいという小室氏と眞子さまに関する報道はいまや手の裏を返したようにきつくなっている。寄ってたかって叩いているといってもいい。

宮内庁が二人の結婚延期を発表しているが、それはおためごかしであり、世間には「破談」という雰囲気が濃厚。
小室家のいろいろがよろしくないのなら早くすっきり「結婚解消」を打ち出せないのか。
日本人の悪いところはできもせぬことを伸ばして逃げること。東日本大震災で生じた核のゴミも「中間貯蔵施設」という名称でつくると100年になり200年になるのではないか。
皇女の結婚は最終的に誰が決めるのか。秋篠宮家なのか天皇家なのか、宮内庁なのか。本人ではなさそうである。
皇女自身に最終的な決定権がないのであれば、蛇の生殺しにしておかず、早く皇女に引導を渡すべきではないか。若い身空の乙女がかわいそうである。

いっそ眞子さまには皇籍を打ち捨てて駆け落ちせよとそそのかしたくなる。
平成の白蓮になってしまえ。
柳原白蓮こと伊藤燁子は、華族であり、大正天皇の従妹であり当時の世間を沸騰させる大事件となった。この素材を作家林真理子が『白蓮れんれん』にまとめている。仮に眞子さまが駆け落ちして皇籍離脱するならば、なにせ現役の皇室の中の女性であるからそのインパクトは伊藤燁子をはるかに凌ぐだろう。
相手の生活がはっきりしていないし収入のことも不明ゆえ燁子が宮崎龍介のもとへ走ったときよりギャンブルである。

眞子さまの胆力が試されるときである。
イギリスはさきごろ問題児のヘンリー王子が結婚した。相手メーガン妃は金銭問題はなかったが、血統のことなど昔の基準ならそうたちがいいとはいえなかった。女優は聞こえがいいが要するに「河原乞食」である。彼らが祝福されたのは、イギリス人全体のものの考え方が変わってきたためであろう。

日本の皇室のイメージを変えたのはなんといっても皇后となった正田美智子であった。美貌と才知を兼ね備えたフレッシュな女性として皇室入りした。
ここ50年の日本女性の功績度ナンバーワンといってもいい活躍をしてくれた。
眞子さまが自由と恋に心中するならば皇室のまるで新しい顔になる。皇室に砂をかけて逃げた女性として生きてもいいのではないか。与えられた身分のしがらみを断ち切って野へ下った女性というのも悪くないと思う。
ブレーキを踏むよりアクセルを吹かせ、若いのなら。
このままだと、

点々とバナナ黒ずむ眞子さまは


という寂しい結果しか見えないではないか。
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熱中症が怖いが海を泳ぎたく

2018-07-18 18:36:34 | 自然

2017年8月11日。新潟市日和山浜海水浴場。台風後で海水がえらく塩辛かった。
「砂無尽足跡無数晩夏光」なる句ができた日。


週2回、1.2キロほど歩いて国分寺市民室内プールへ行く。特に暑い今日のような日は冷房にいて何もしないと筋肉が衰える。行き帰り30分の歩きと30分水泳くらいはしたほうがいいだろう。
900mを30分で泳いだ。休みを入れるときもあるが今日は面倒で泳ぎ通した。上がったら喉がからからで桑の葉茶をがぶがぶ飲んだ。それが一気に汗となった。

今月の末、九州の海へ泳ぎに行く予定。海は壁も底もないので泳ぎ始めたら休めない。プールのように壁を蹴って行き来するというのとはまるで違う。波もある。海月もいるしほかの虫もいる。
それに日差がきつい。日差は怖い。
きのう愛知県豊田市の小学校で1年生が熱中症で亡くなったことはショックである。むかし虫取りなど平気でやったものだが、日本の気候は亜熱帯になってしまった。

海で泳ぎたいが日中はだめ。日焼けは焼却と同じで死を早める行為である。したがって夕方か朝、日差のやわらかなとき、長そでを着て泳ぐ。
もっといいのは朝日が出ない夜の海を泳ぐことである。ひんやりして気持ちがいい。暗い海を泳いでいて朝日に会うのは、大げさに言えば世界の誕生を感じる。横に女性がいればこれぞアフロディティと錯覚してしまいそう。




20代後半、海での泳ぎを徹底的に鍛えた栄松海水浴場(日南市南郷町)。
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フランスの簡単に点を取る力

2018-07-17 13:24:44 | スポーツ

本日付「日刊スポーツ」2、3面


サッカーワールドカップの決勝戦、フランスVSクロアチアを見ていて、クロアチアのほうが強いのになあ…と何度も思った。
クロアチアのボール支配率は66%。クロアチアは中盤も制してフランスを攻めていた。クロアチアに点が入るんじゃないかと何度も思ったが結局守られた。
すくない機会にボールを得たフランスはポグバ(3点目)にしろエンバペ(4点目)にしろそう苦労せずゴールへきれいに蹴り込んだ印象であった。このときフランスは盤石と思った。
攻めているときのクロアチアは雄々しかったが守ると日本の守備陣よりひ弱な感じがした。
こうなると自分たちがボールを34%しか保持できなくてもいいじゃないかという気がする。

むしろ攻め疲れてここぞの局面で決められないとまるで徒労ではないか。
その際たる一戦がドイツVS韓国。
ドイツのボール支配率69%に対して韓国は31%。韓国は一方的に攻められていたように見えた。攻められていたがシュート数はドイツ16に対して韓国13。うち枠へ行ったのはドイツ6に対して韓国5。ドイツは攻めているように見えたが内実はほぼ徒労であった。
しまいにはキーパーまで攻撃に参加させたその隙をつかれて2点目を取られて完敗した。憐れというしかなかった。

セルジオ越後さんは今日の日刊スポーツで、フランスをはじめベルギーなど活躍したチームを、「守ってカウンター、またはセットプレー」であり、要するにおもしろくないと酷評している。
自分らしさを出すより相手の強いところを出させない、勝利至上主義、まるでゲームであると舌鋒鋭いのだが、しかしサッカーは勝つためにやっているのではないか。ならば堅守カウンターが完璧にできるチームを批判して何になるのだろう。

世界ランキング70位のロシアがベスト8まで行ったのは堅守であった。観客を感動させないゲームスタイル。
フランスも守り重点型であるがロシアと違い攻めると簡単に相手ゴールを割った。ロシアがフランス型でありながらベスト4に行けなかったのは攻撃力不足であったろう。
守備的作戦を一部に批判されるフランスであるが、短い時間の攻めの収穫は半端ではない。手間暇かけず点を取る能力も並みはずれていた。これは華といっていいのではないのか。

フランスサッカーは1980年代、「シャンパンサッカー」といわれた。
ミシェル・プラティニを中心とした選手たちがまるでシャンパンの泡のように華麗で奔放なパスを回すパスサッカーのことである。
これからみれば今回のサッカーは地味である。けれど時代によってサッカーもなにもかも変わらざるを得ない。

エンパべという核弾頭をちらつかせることで盤石のディフェンシブサッカーが花開いたといっていい。それは誇っていい。
仮に日本にこのサッカーをやれといわれてもできる要素がない。
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