天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

セの5球団はプロなのか

2018-07-26 13:58:06 | 野球

広島を追うチームはいるのか


プロ野球がおもしろくない。セ・リーグのことである。
広島が49勝43敗1分、勝率0.59で首位。あとの5チームはすべて負け越してどんぐりの背比べ状態。2位ヤクルトとの差が8.5ゲームである。
交流戦でパ・リーグに白星をそうとう献上した傷跡といってもいい。
弱い5チームから抜け出て1強の広島に挑むチームがない。弱いもの同士が星のつぶし合いをしている。これじゃあセ・リーグの優勝は決まったも同然ではないか。

きのう巨人VSヤクルトを途中まで見ていて嫌になって寝てしまった。プロ野球のチーム同士の試合ではないような気がする。いま盛り上がっている都市対抗野球のトップチームとセ・リーグの弱い5チームはやるほうがいいのではと妄想してしまった。

弱いとどうでもいいことを長い時間をかけてやっているように見えてしまう。勝つためにやっているのかと思ってしまう。
たぶん先ごろ盛り上がったサッカー・ワールドカップの影響もありだろう。トップレベルのサッカーのスピードを見ているうちに、ひとつひとつの動作に休止をともなう野球がかったるくてならなくなった。

セ・リーグの5球団は首位争いを下りて2位3位に食い込むことに戦略を変えるだろう。すると現行の首位、2位、3位で日本シリーズ出場権を争うシステムはいっそうつまらないものになる。
勝率が5割を割るチームが広島を食ってしまいそのチームがパ・リーグの勝率5割8分のチームを食ってしまったら……考えるだに悪いシステムである。

1強のほかすべて弱いのはセ・リーグのみならず自民党も同様である。自民党もおもしろくない。首位を脅かす存在はいないのか。群雄割拠まで望まない。項羽に対して劉邦がいたような構図にならないのか。
セ・リーグはまったくつまらなくなった。
今日も早寝するか。
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一句の読みをめぐり正面衝突

2018-07-25 06:18:29 | 俳句


讀賣新聞7月23日の俳句欄、小澤實選第1席。

日盛や古書肆のなかを蟹歩き  高橋まさお

【評】浜辺近くの古書店。日盛りだが、海水浴客や磯蟹も訪れるのだろう。蟹を踏みそうなのが心配だが、訪れてみたい。全体にK音が頻出、小さな蟹の歩く音が聞こえる。

句と評を読んで何の疑問もなく受け入れていたところ、ふだん新聞の俳句など読まぬヨミトモF子から突如メールが来た。選者は読み間違えているという。
F子は「蟹歩き」しているのは作者だと主張する。したがって作者は1席で採られたが評を読んでがっかりしただろうと作者を気の毒がった。

いつだったか岩国の沖の柱島へ吟行に行ったとき宿の三和土へ赤い蟹がやって来た。これを「またテロのニュース三和土を蟹歩く」と書いた記憶がある。このときF子もいたから本物の蟹と読んでもよさそうだが彼女は違った。
F子の蟹歩きをしている見立ての句という解釈に虚をつかれた。
小澤實さんは擬人化した蟹だとは思いもしなかった。それは小生も一緒。擬人化だとすれば品がない。千鳥足やモンローウォークのたぐいにしてしまっては俳句が死ぬ。したがって選者はそちらの方向の読みを考えもしなかった。リアリズムの句として読んで品がいいし味があるのだ。

「蟹歩き」を動名詞と採るか、「蟹歩く」の連用形とみるかで解釈が真っ二つになる。
上五に季語を置く○○○○やという形では下五の動詞は終止形でもいいし連用形でもいい。鷹俳句会は割とストレートを好み終止形の句が多いが、ここは必ず連用形にせよと指導する結社も多い。
連用形だと揺り返しの味わいが生じそれが上五の季語に波及して句が厚くなるという考えである。最近小生もここを連用形にすることが多い。

俳句をみて俗っぽい方向、低いレベルで読みたくないという心理がはたらくのである。
しかし「私はモンローウォークするから作者も蟹歩きしたのよ」という俗っぽいヨミトモF子の言い分にも理がないとはいえない。
こういうふに読みが割れることもこの短い文芸のおもしろさ。それで話の輪が広がればそれでいい。俳句は曖昧模糊としたものであり、正解がないことを楽しむものなのである。

この論争で小澤實選の第2席の句、

べつたりと指紋つきたり兜虫  天地わたる

がまるで霞んでしまった。F子はこの句に何の関心も持たなかった。



撮影地:多摩医療センターわきの池
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俺を風評被害にさらした男

2018-07-24 01:44:37 | 身辺雑記

いとう岬


郷里伊那市に住む旧友、いとう岬がフェイスブックに「短歌と川柳を楽しむ会」より、という寄稿をした。おとといのことである。
このなかで、彼は、
「ぼくは川柳から出発して、俳句もかじり、現在は短歌を書いているから感じるのですが、あえていえば3つのなかでは川柳が一番むつかしい」という。ここから俳句と川柳の違いについて切り込み、
「俳句が自然や風景などモノ(物)を詠むのに対して、川柳はコト(事)人の心や行動を詠みます。例えるなら俳句は風景写真。人間の情感や感情のある一瞬を切り取るスナップ写真が川柳です」と述べている。

これにぼくは噛みついて次のように反論した。
「俳句と川柳の違いはなんといっても季語を重視するか否かでしょう。
俳句が季語を重視するのは、人間は動植物の命とイーブンである、という世界観に立っています。人間至上主義ではないということが背後にあります。
川柳にも季語が入っているものがありますが川柳人にとって季語は一般の言葉として使うことが多いようです。俳人は季語を神棚のものという意識で使います。
俳句と川柳の違いに風景写真、スナップ写真とかいう比喩を用いるのは本質から外れます。やはり季語の有無をいうのがいいでしょうね。」
風景写真とスナップ写真は対立する概念ではなく、旅に出ると風景をスナップで撮る。風景写真に対して商業写真(コマーシャルフォト)を持ち出せば比喩として成立するがスナップ写真ではだめ。このへんが彼の甘さ。
そんな枝葉末節の比喩に走るより、俳句と川柳の違いは季語があるかどうかでしょう。季語の威力を信じて使うか(俳句)、季語を普通の言葉と同格で使うか(川柳)ということをまず語るべき。

すると、いとうは
「人間は動植物の命とイーブンである」という世界観は日本古来の仏教に由来する考え方だと思います。だから昔は四つ足の動物を(表向きは)食べる習慣がなかった。しかし西洋人は趣味として狩りをし、闘牛などで牛を殺し、アフリカなどでハンティングをしてきた。日本での狩猟は自然や動物に対してもっと敬虔なものだった。しかしそれは俳句だけの世界だろうか。日本の短詩文芸の地下茎はみな繋がっているから、厳密な棲み分けは難しく、上述の世界観や季語が俳句だけのものであると言い切ると、多分、短歌・川柳側からの異論もあるのではないかと思います。」
と言ってきた。相変わらずぐだぐだいう。久しぶりにイライラした。

君は俳句と川柳の違いについて論考していてそれに俺は反論し助言した。そのことについて述べろよ。論点をそらすなよ。
と思いつつ、彼が15年前とちっとも変っていないことに懐かしさと親愛の情を感じた。

いとう岬はぼくは50歳のときから10年間、『旬』という雑誌で川柳をした間柄である。
俳句に低迷したぼくが季語のない川柳におもしろさを感じた。川柳をやることで季語の意義を深く知ることになり俳句が少しわかったのであった。
この10年間、いとうとはイライラする議論を繰り返してきた。それをまた今回やって懐かしくなったのである。

いとうからぼくが学んだことは、話は本質にズバリと切り込むこと。
つまりA=B、B=C、ならば、A=Cであるという流れでないと人は納得しないということである。いとうの場合、A、B、Cしかなかったところへ突如、A=Dというようなものを出現させて人を惑わす。これはいけないということを教えてくれた反面教師といっていい。

ほかに彼から学んだことは、インターネット全盛時代で風評被害を言っても仕方ないということである。
彼はそのころすでに「ひまじんさろん」というブログを書いていた。
その2009年6月29日の「天地わたるという男」という小文。これはぼくの人格について述べたものだが、ぼくは即座に風評被害と感じた。自分がどう書かれようとそれはいいが事実をしかとおさえて書いてほしい。この文章は事実の把握が足りず、雰囲気に走っている。彼に消去を求めてもよかったがしなかった。本人は気に入らないが彼にはぼくを書く自由があるだろう。基本的にそれを阻害したくない。
しかし嫌だ。どうすればいい。
そうか、自分がブログを書いてこの記事を薄めて行こう。
これがぼくがブログを書き始めたきっかけである。自分のことは自分で書いて主張すればいい。このことを彼が反面教師として教えてくれた。

いとうは「天地わたるという男」のなかで「性格も文芸観も思想もことごとく違うふたりであるが、自分に率直で正直であるというところに互いに信頼感があって、長いつきあいになっている」という。
まさにその通り。
あいつと話すといつもイライラするが、それがおかしい。まあ郷里で元気でいてくれ。そのうち話しに行くよ。君は愚図だが奥さんが優れているから。
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ばんざーい熊谷、国内最高気温

2018-07-23 16:30:47 | 世相


猛暑のなかでも今日がもっとも暑いというので、早朝はたらくことにした。
俺はふつう4時に起きている。握り飯ひとつ食べて4:50に自宅を出る。早朝は道がすいていて快適。
朝日を感じたのが5:37。今日は雲が多くて朝の日差がマイルド。

仕事の合間に乾燥している桑の葉を鍋で煮詰める。こういう日は桑の葉が醸し出す色を見ているにかぎる。美しいでしょう、自然の色は。
桑の葉茶を1.8リットル作って9:30に帰宅。飯をしっかり食う。
昼にKさんの35句が郵便受に入っていた。それを見て13時から電話レッスン。今回は暑いせいかできが悪い。暑いと頭が散文化するのか、だめだった。

人の句を見てはっとする句に出会うと幸福になるがそうでないとつまらない。おもしろくない日だと思っていたら、青梅の気温が40℃を越えたニュースが入った。快挙!
すると熊谷がなんと国内最高気温41.1℃を記録した。最近、岐阜の多治見が40.7℃で輝いたし、ずっと暑さで熊谷は多治見の後塵を拝していた。
やった熊谷!覇権奪回とぼくはうれしいのだが当地の人はどうであろう。どうせ暑いのなら多治見や京都に負けてなるものか、と思っているのではないか。
関東勢が中京や畿内に勝つとそれが自然現象の気温であってもうれしい。これから始まる高校野球において関東勢が負けてもなんとも思わない。
不思議な感情である。
こんなことあまり広言すると馬鹿にされるから一人ビールで熊谷に乾杯しよう。熊谷でも乾杯する人がいそうな気がする。ブラボー、ク・マ・ガ・ヤ! 君はエースだ。巨人のエース菅野も負けたが君はやはり強かった。

明日も早朝勤務にしようか。こういうとき束縛されない仕事はいい。賃金も安いが。
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散文を拒み写生せよ

2018-07-22 11:57:37 | 俳句


ある人から俳句が来て見てほしいという。

糸屑のつきたる汗の菜っ葉服
風灼ける鎖の錆のぼろと落つ


見ているところはそう悪くないが、切れがないというか、感動がストレートに胸に飛びこんでこない。
両句とも○○の☓☓の……というふうに「の」をむやみに使って続ける。つまり園児が先生に逐一報告する形であり、たどたどしい散文の切れ端である。伝えたいことはすべて入れました、わかってくださいというやつで、ぼくは片言英語と貶している。

糸屑も汗じみてをり菜っ葉服
風死して鎖の錆のぼろと落つ


とでもしてみるか。「風灼ける」がムード過多であるし上五で動詞終止形で置かれるとえらく不安定である。ここが「蟬時雨」という名詞だとかなり韻文の感じになる。「ぼろと落つ鎖の錆や」とカチッとしたフレーズにして「の」を取ることを考えていい。
とにかく散文の切れ端をやめて韻文化を意識すること。

別の句会で以下の句が出た。

川の字に昼寝の世代並んでる


むろん点が入らなかった。この句は肝心の中七が抽象的で見えない。
「川の字に父われ息子三尺寝」。三世代を具体的に言えばぐっとリアリティが出るだろう。

心太すする親子の似てる声


この句も散文的と思うのは、季語に言葉を足しているせい。「すする」はまるで不要。
「父の子の似通ふ声や心太」とでもしてみるか。親子というより父と子のほうが見えるだろう。

飯島晴子は俳句に関する優れた随筆をたくさん書いている。
その一つに「言葉桐の花は」がある。「言葉桐の花」と「実際の桐の花」は俳句の中では違わなければいけないのに、二つはぴったりくっついていると思っている人が多い。
「言葉桐の花」と「実際の桐の花」の間には、飛び越せぬ深い闇があると認識している人でないと写生はできない、という内容である。
言葉と実物があまりに狎れあ合ってしまってすべてが散文化した。
これは言葉と実物の間が地続きで歩いて渡れるということである。けれど歩いて渡れる意識で言葉を使っていては俳句の写生とはならない。
実物の桐の花と言葉の桐の花との間には何もあってはならぬ。
写生とは両者の間に割り込んで来ようとするものを必死に退けることである。
これが写生であり俳句をものすことである。
このように飯島晴子は味わい深い写生論を述べている。

来月8月11日のひこばえ句会(田無公民館)では、飯島晴子の写生論をぼくなりに噛み砕いて解説する予定。



撮影地:宗像市釣川河口付近
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