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鷹は12月号に毎年恒例の「同人自選一句」を掲載する。今年は500句が掲載されている。この中から小生が気になった句を取り上げて若干の感慨を述べる。
ひろびろと波打つ布のやうに春 奥坂まや
たとえば物干に乾いてはためく白い布を思う。まさに春の日を受けてあたたか。奥坂まやの本質は比喩である。その才能をいかんなく発揮した一句。
ふたりして星座に疎き露台かな 奥山古奈美
北極星はあれね、北斗七星の尻尾はあそこ、シリウス…うーん。とにかく星がきれいね。二人のいい関係がバルコニーで展開する。
熟柿落ち木喰仏の笑ひ声 加賀東鷭
俳句は中七が要でありこの句は「木喰仏」にはっとする。木喰は江戸時代の遊行僧で多数の仏を彫った。それは前時代の円空よりやわらかな印象であった。したがって「笑ひ声」が効く。
笠に着る奴の濁り目油照 梯 寛
最初から最後まで悪感情で押し切っている。よくも心情をかくも形象化したものである。あっぱれ。
紅顔と白骨の謂枯はちす 景山而遊
出典は『和漢朗詠集』の、「朝に紅顔あって世路に誇れども、暮(ゆふべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ」から。これを巧みに五七五に取り込んだ一句である。
しをらしき風邪声たれか聞きに来よ 籠田ひろ恵
おもしろい。思わしくない事態でも俳句は逆手にとって諧謔味を出せるツール。
蟻の列かつて学徒の足音あり 梶塚葵風
確かに蟻ほどの命の重みしかなかった戦争を思う。日清、日露から太平洋戦争にいたる富国強兵のわが国の歩みを思う。
着ぶくれてなんだかわからないが反対 加藤静夫
人は流れに乗りやすい。テレビなどのメディアの情報にいともたやすく乗ってしまう。作者はそれを皮肉る。
少しづつ汗の赤子のずり落つる 鎌田ひとみ
赤子の汗は気持ち悪いが落とすわけにいかぬから頑張る。俳句の生命線は実感であるという一句。
定年と老後のあはひ水中花 木内百合子
人が80年生きるのが当然のようになると60歳以降が短くない。それを水中花でもってうまく明らかにした。
六月の水の速さを歩きけり 儀賀洋子
清流のわきをそれに添って下っているのだろう。簡潔に描いて水の清らかさと歩く楽しさを伝える傑作。
鳳梨畑雨の柱が立ちにけり 岸 孝信
鳳梨はパイナップル。「ほうりばた」と読もうか。熱帯地方でスコールが来た景である。「雨の柱」と形容したのはオーバーではない。
義士の日の蕎麦屋の角を曲りけり 喜納とし子
赤穂浪士の討ち入りと蕎麦屋は時代性をふくめ引き合う。意味を消して雰囲気を残したうまい句である。
蛍となりたる母に逢ひに行く 木原 登
蛍を抒情の核にする句は多い。蛍を見て母を思うという発想も多々あるが母が蛍であるという断定が冴えて類句を脱した。
狐火や土方巽の目ン玉 小泉博夫
土方巽は(1928年3月9日~1986年1月21日)は日本の舞踏家。写真を見ると目玉といい風貌といいぞっとする。まさに狐火である。
餡パンと濃き珈琲と朝桜 小林水明
この句の作り方は運動会の大玉送りである。三つの手の上をいかに詩情が流れるかが勝負。この並列は気持ちいい。
海底の人呼ぶ声と秋風と 小林博子
「海底の人が呼ぶ声」か「海底の人を呼ぶ声」が。小生は後者と考える。すなわち東日本大震災などで行方不明となった人が海底にいるのではないかと叫ぶ声である。しかしその声は秋風にまぎれてしまう。痛切な哀悼句である。
さきざきの事はアハハや晦日蕎麦 小宮山智子
ドリス・デイの1956年の楽曲「ケセラセラ」を連想した。それを翻訳したかのような「さきざきの事はアハハ」である。名訳ではなかろうか。
新元号待つ永田町あたたかし 小山博子
国民感情を思うと野党も新元号に関してはそう逆らえない。政争のたねにならないし季節は春である。意外性のある攻め方である。
父の酒癖母の口癖暦果つ 西條裕子
父母は子どもによく観察されている。この二つの癖のリフレインは味が濃くおもしろい。
ビラ配る主演女優や冬木の芽 斉田多恵
小劇団のアルバイトしながらかろうじてやっている劇団員という感じ。メジャーになれるかどうか。季語が絶妙である。
写真:米倉八潮がアートディレクションとグラフィックデザインをした「SONOMAMA MADE」(ソノママメイド)
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