鬼おこぜ
月刊誌「俳句」に奥坂まや(鷹同人)が「鼓動」と題して発表した21句。これを天地わたると山野月読が合評する。天地が●、山野が○。
緋牡丹の獅子吼咲とぞ云ふべかり
●「獅子吼咲」は「ししくざき」と読みます。「獅子吼」を広辞苑は、1)仏が説法するのを、獅子が吼えて百獣を恐れさせる威力にたとえていう語、2)大いに熱弁をふるうこと、と解説しています。
○「獅子吼咲」というのは「獅子咲」からの造語ですかね。「緋牡丹」に「獅子」とくれば、唐獅子牡丹を思います。獅子=百獣の王には牡丹=百花の王。
●いや、「獅子咲」ではなく「獅子吼+咲」でしょう。作者は、ライオンが吼えるさまという言葉の原点に立って緋牡丹の豪快な開きようを形容しています。
箍外せし如く牡丹ばらけ落つ
○「牡丹」の花弁が一斉に散る状況ですね。「箍外せし如く」「ばらけ落つ」と表現することで、散る前の「牡丹」ならではの花弁の群れ満ちた状況が目に浮かびます。
●前の句もそうでしたが作者十八番の比喩です。小生はまやさんの本質は比喩であるとずっと思っています。
メーデーや花屋の花のみな根無し
●言われてみれば花屋の花はだいたい切り花です。
○「根無し」ではない、鉢植えも扱われているケースはありますが、こうしたケースを例外として「みな根無し」と言い切ることの面白さ。
●花屋に鉢植えも10%ていどあるでしょう。それを無視して「みな根無し」と言い切ってしまうから句が強いのです。メーデーという浮かれ気分が「みな根無し」を支えています。思い切りのよさも奥坂の大いなる魅力です。
蜘蛛の巣張り闇が息してゐる生家
○張られた「蜘蛛の巣」に目が行くことで、日頃はあまり意識しない家の隅々の「闇」に意識が行くことはありますね。「闇が息してゐる」と感じてしまう作者の意識。
●生家に父母はおらず廃屋でしょう。闇に匂いさえ感じる迫力があります。
麦飯を嚙み口中に風の記憶
○「麦飯」ならではの味覚。「風」に揺れる「麦」畑の記憶でしょうか、そこにはきっと作者もいて。
●麦飯から麦の秋を感じました。あのころ吹き渡る風を思いました。
抱きしめて鼓動交じらず夏の星
●わからないんです。主語は作者で目的語は夏の星と読めばいいのでしょうか。
○中七で切れると読んだので、下五の「夏の星」は句全体の目的語としてではなく、「抱きしめて鼓動交じらず」に対して、まやさんの言うところの供え物としてあるのでは。強く抱きしめることで互いの「鼓動」を感じることはできても、それは決して「交じ」りはしない。こうした孤独感に対しての「夏の星」という絶妙の配合。
●すると「抱きしめて」は人ですか。情事みたいな場面なのでしょうか。
○少なくとも、作者が誰かを「抱きしめて」いるとまずは読まれることを作者は想定していますよね。その上での話としては、銀河系というシステムが、腕を回すように無数の「星」を「抱きしめて」いるというモチーフが隠されているのかも知れません。その場合には、ミルキーウェイとも言われることからの母性への意識があるように思います。
水に滲むやうにほうたる光りをり
●蛍は水からそう離れずに飛び交います。よって「水に滲むやうに」は蛍の本質をとらえています。
○「水に滲むやう」に見えるのは、蛍そのものというよりは蛍の「光」だと思いますが、蛍そのものも「水に滲むやうに」感じさせる句ですね。
●一物仕立ての句としても絶妙。蛍の光の表現として秀逸です。
死螢にこんもりと蟻簇がれる
●こういう発想の句はすでにあると思うのですが「こんもりと」が効いています。
○「簇がれる」という漢字は知りませんでしたが、「群がれる」よりも「蟻」の一群感が出ていいですね。
かすかなる顫音発し蛇の舌
●中七が見どころです。顫音(せんおん)はトリルの訳語で、トリルは2つの隣接する音符(通常は半音またはトーン離れている)の急速な交代からなる装飾音のことです。
○音楽に疎く、トリルなるものを理解していないのですが、それでも、「蛇の舌」の発する音のイメージから逆に「かすかなる顫音」なるものを想像させます。
●音といっても心象に響く音なんですが「顫音発し」を得ることで一句になりました。俳句は言葉の芸であるとつくづく思いました。
喨々と眼を張りて鱏しづか
●作者が得意とする海の動物詠。初期から海の生物は大好きで、「もも色のほのと水母の生殖器」という句もあります。
○「喨々と」という表現は一般には聴覚的な把握として用いると思いますが、それを「眼を張り」具合という視覚的な把握に用いて新鮮。これは鷹主宰得意の五感のクロスオーバーですね。
●共通するテクニックです。
細き肢きつちり束ね烏賊泳ぐ
●よく見ています、「細き肢きつちり束ね」。その通りです。
○言われてみれば確かに。あの複数の「肢」を「きつちり束ね」なければ、あれほどの泳力は生まれないでしょうね。
鱓(うつぼ)
大暑なり巌を鱓(うつぼ)のめり出づ
○海中の情景に対して「大暑なり」というのもすごい把握ですね。「のめり出づ」というのは、動作的に想像はつくのですが、あまり見かけない表現では。表現としてよく見かける「のめり込む」を意識した言い回しでしょうかね。
●そうです、ふつう空間で使う「大暑」を海の中へ持ち込んだ感覚に魂消ました。「のめり出づ」もなかなか出てこない表現。作者はここぞと思って使ったように思います。
○まやさんの句は、「初めにモノありき」的なつくりの句が多いですね。面白いです。
●この句の鱓を作者は長い時間見たと思います。見て言葉を引き出すので言葉が強くありきたりではないのです。
鬼おこぜ突兀の背を氷詰
●「鬼おこぜ」も獰猛です。まやさんは本質的に獰猛なものが好きなんですよ。
○「突兀」なる言葉も初めて知りました。漁によって獲らえられ、鮮度を失わわぬように「氷詰」にされた「鬼おこぜ」。上五・中七の獰猛な印象からの下五の転じ方が面白い。
●「突兀(とっこつ)の背」効いていますね。一般に女流はやわとかやさしいというイメージをこうむりやすいのですが、まやさんはエネルギッシュで獰猛。小生は彼女の魅力をラグビーにおける「ハードタックラー」と見ています。対象にぶつかって言葉を摑み取るのが奥坂です。言葉遣いに勢いはありますが繊細です。
機動隊一群無音油照
●おしゃべりはしませんね。彼らが集結しているだけで緊張感があります。
○きっと本当は無線マイクを通じて連携・連絡をとっているのでしょうがね。「機動隊」の訓練かも知れませんが、「機動隊」が投入されるような状況を思うと、「油照」感も一入。
●全部漢字で動詞が皆無というのも不気味です。
龍の骨抱きし巌雷蒼し
●「龍の骨」、考えこんでしまいました。龍は空想の動物ゆえ化石などないわけです。すると竜骨というようなイメージなのかと。岩山を恐竜の体と思ったとき太い骨が通っているという感覚かと。
○本句の発想の起点(契機)は「蒼」き「雷」の発生だと思います。この「蒼」き「雷」を「蒼」き「龍」だと見立てることで、「龍の骨抱きし巌」という措辞が生まれたのではないかと。
●この句はイメージが錯綜していませんか。小生とあなたと読みが異なったように。
○「蒼」き「雷」によって「巌」が映し出されるわけで、その岩肌の荒々しさに「龍の骨」を感じたのでは。私としては、「蒼」き「雷」によって「巌」に投影される「龍の骨」であり、それはレントゲンのようなイメージなのですが。
艶聞のごと密豆の紅求肥
●紅求肥、べにぎゅうひ。とろんとしたやつですか。
○「求肥」は表面はざらざらした、やや甘い練り物で、色は様々です。この「紅求肥」を捉えて「艶聞のごと」とは凄い比喩です。「密豆」は通常は「蜜豆」と書くと思いますが、いずれにしても「密」=「蜜」からの発想じゃないでしょうか。
急流は魚影許さずほととぎす
●岩魚はいるような気もしますが中七は押してくるものがあります。
○岩魚などが実はいたとしてもいいんでしょうね、というか、いることを前提とした方が「魚影許さ」ぬほどの「急流」具合として活きてくるように思えます。句中の「ほととぎす」は鳴き声によって捉えられたのでしょうか。それとも作者の視界にあるのでしょうか。措辞的には後者のように思えました。
●小生は鳴き声ととらえましたが奥坂の季語の置き方としてはやや甘さを感じました。急流も音を立てていますから鳴き声でなくて「青嵐」のようなもののほうが効いたのではないかと。この季語はいつものまやさんらしくないですね。
○鳴き声と捉えたのでは、急流の音と重なって面白くないとの想いもあって、「ほととぎす」は作者の視界にあるのではと考えました。そうすると、「急流の魚影」を鋭い視線で窺う「ほととぎす」という構図になり、まやさんらしいのではないのでしょうか。
●この季語はやわですよ。
炎熱や黒曜石は星蔵す
●「炎熱や」と言っていますから真昼です。黒曜石は灼熱の岩場にあって光った。それを星ととらえたのです。
○そうでしょうね。一方で、「黒曜石」といえば、武器・刃物等の素材として活用されてきた石器時代などのイメージがあり、「黒曜石」のそうした時代性みたいな観点から、「黒曜石」そのものが時代・時間を内包しているという捉え方があり得ますが、そうした膨大な時間の内包という意味では、「星」も似ていますよね。
●そう「黒曜石」は悠久の時間なんです。暗黒の宇宙なんです。「黒曜石」を白昼に置きそこに星を見た感覚に凄みを感じました。
大輪のダリアは光蹴りて咲く
●「ダリアは光蹴りて咲く」、いかにもまやさんらしい措辞でにんまりしました。
○通常の安易な表現では「光り輝く」的な言い様になりそうなところを、「光蹴りて」として「大輪のダリア」の擬人化によって主体性を如実に示した句ですね。
黒人の膚(はだへ)日に映え朱欒咲く
●さきほど黒曜石がありました。灼熱と黒との引き合いが好きな作者です。
○「朱欒」と言えば、九州、長崎をまずはイメージしますが、土地はあまり関係ないのかな。「朱欒咲く」なので、食する実の方ではなく、白い花が扱われているわけで、そういう観点からは「黒人の膚」との対照はわかりやすいとも言えそうです。
●白い花でなくてオレンジでもいいような気がしますがこれは作者の感覚の領域です。
大滝の無数の牙の落下せる
●水の落ち方を牙と見ました、それも無数の牙と。
○斬新な把握ですねえ。今回の一連の句の中で、私的には最も飛躍を要しそうな暗喩です。ものの見方として鳥瞰的視点とか虫瞰的視点とかが言われますが、本句は「大滝」から「落下する」水を虫瞰的視点によって分解して「牙」として捉え直したとの言えますし、一方で、「無数の牙」を言うことで、この「大滝」の獣性を見出したのだとすると、それは鳥瞰的視点とも言えそうです。
●去年の鷹11月号、星辰賞を滝関連の20句で桐山太志が受賞しました。奥坂はこの選考委員でしたが一人だけ認めませんでした。理由として桐山の「滝の中滝加速して落ちにけり」「滝落ちる半ば生まるる浮力あり」など滝そのもの句が類想的で弱いというのです。この句の発想の凄さ、大胆さを見るにつけあのときの奥坂の心情を納得せざるを得ない気持ちです。
「滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半」以来久々に出た滝の一物の傑作ではないでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます