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ワルードカップ決勝戦はフランス、アルゼンチンの実力が拮抗しまれに見る熱戦であった。それぞれをエムバぺ、メッシというスーパースターが牽引し、この試合で両者が得点王を争うというおまけが付いて盛り上がった。
二人だけで戦ったのではないが特にこの二人は突出したプレイを見せてくれた。決勝戦のエムバぺの2点目のシュートは信じられないボレーだ。あんなに速く自分に向かってくる球を回し蹴りのごとく右足を振り抜くと球がゴールへ吸い込まれた。神業である。
メッシのいちばん印象に残ったプレイはクロアチア戦のアシスト。ゴールポスト右深くドリブルで持ち込み、執拗な防御を避けて避けて左へ左へ回り込んで出したマイナスのラストパスの鋭さと精度。同僚のごっつぁんゴールを演出して見せた。
サッカーの防御専従の選手は辛い。キーパーには「ファインセーブ」のような評価の言葉があるのにセンターバックにはない。守って当然で失点すると糾弾される。素人もセンターバックのいい仕事を評価できず、彼らが目立つのはストライカーに負けてゴールを許したときである。
それはさておき、ワルードクラスのサッカーを見ていて俳句を考えていた。サッカーの俳句を書こうというのではなく、スーパープレイがもたらす感動の質と佳句から得る感激は似ているということである。
サッカーに感動するとき頭で考えて納得しているのではない。そのシーンが感覚に訴えるのである。「凄いなあぁぁぁ」なのである。「凄いなあぁぁぁ」を何度も見ていると俳句を書くとき、ここは押込める、ここが引くべき、ここはもっと鋭く、といった感覚が養われると実感する。
俳句の勉強は俳句の本でするのもいいが他のジャンルの何かに感動することがえらく大事。人の俳句を見ていて、たとえば、
「理髪師と客ゐる鏡御慶かな」
などを鷹同人が書いてくるとがっかりする。「<かな>の句はそこに至るまでのプロセスで大きな切れがあってはいけない。切れるとしても<オムレツが上手に焼けて落葉かな 草間時彦>くらいの息をつくくらいまで」と何度も言っているのに一向に克服できない。本に書いてあることもだが<かな>の途中で段差のある句を読んで嫌だなあと思う感覚があって当然なのだ。
メッシやエムバぺを見ていてこんな精度の低い句を書けるのか……とがっくりする。自分の句を読んで中七から下五へ渡って行けないととっさに感じないのだろうか。
いいものに感動するという内面の働きがないかぎりサッカーを見ていてもその良さが響かないし、それが作句の良さは結びつかない。
サッカーを見ていて感動体験がいかに大事かということをあらためて思った。
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