鷹は12月号に毎年恒例の「同人自選一句」を掲載する。今年は500句が掲載されているから鷹同人は500人はいることになる。この中で気になった句を取り上げて若干の感慨を述べる。
ひと掬ひほどの日向や寒雀 佐竹まあ子
日向に対して水を掬うような表現が意表をつき当を得ている。寒雀が見える。
水着着てマネキン沖を見るごとし 椎名果歩
このマネキンに人を感じてならぬ。もしかして果歩さんは金槌で水着を着てビーチチェアに寝そべる人か。
一房の葡萄聖書の重さあり 志賀佳世子
葡萄が聖書でどういう役目をするかは浅学にして知らぬが、葡萄と聖書の重さは感覚的に引き合う。
亡き父母へ夫を返しぬ天の川 島田星花
鷹主宰はこういう発想に驚いたと言ったが小生も同感。お父さん、お母さんからあの人をお借りして一生を添い遂げました、という考えは宗教に近い。
どびろくや血筋に一人相撲取り 嶋田文江
何かと気になる男である。痴呆とか引きこもりでないので彼を語って愉快になるのだろう。
白百合や死は真上より覗かるる 新宮里栲
まさにこの通り。死を即物的にとらえて秀逸。
女四人男の墓を洗ひをり 杉崎せつ
妻と娘三人なのかもしれないがそうでない女たちを想像させておもしろい。
立冬や庭の白砂に薄き影 杉谷たえ
影は砂自体のものかほかのものか知らぬが立冬の気配がひしひしと伝わる。
すててこや殺虫剤の注意書 すずもとちか
蚊やごきぶり対策をしている親爺。情緒を駆逐しておもしろい。俳句はぶっきらぼうがいいという典型の一句。
グラタンの焦げ目帰省の子を待てり 髙嶺みほ
グラタンの「焦げ目」を言ったのでぐっと身近になった。俳句は一箇所際立てばいい。
列聖を拒みて鳥に花ミモザ 髙柳克弘
列聖とはキリスト教で信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位にあげることをいう。それを拒んで鳥になったという聖者を題材にする作者の詩精神に感動した。
母の死後雑煮に餅がぽつかりと 竹岡一郎
簡単のようでいて「雑煮に餅がぽつかりと」はなかなか言えないところ。自分ならではの空虚感を出している。
海月沈む今は一人でゐたい時 竹岡佐緒理
桟橋か船か海をのぞき込んでいる作者。孤独というものを描くに海月は絶好の季題。
石灰を引く音軽し朝桜 田中未舟
四月の校庭だろう。上五中七の微細にして見える描写が決め手である。朝桜もいい。
白粉の花に逢瀬の匂ひあり 田上比呂美
この花の匂いがどんなか思い出せぬがそれゆえに「逢瀬の匂ひ」と言い切ったのと符合するのである。「逢瀬の匂ひ」なる観念を言いとめるのに白粉は最適。
山の花白し六月来たりけり 戸塚千都子
まず山法師を思うのだが初夏の山の花は白いと思う。高山植物ではないそのへんの山の風情で親近感がある。
パンジーや昼養ひのオフィス街 鳥海壮六
人が出て込みあう街の事情を巧みに詠んでいる。「昼養ひ」は昼食のことだが和語にして味を倍増させた。
春月の山をゆすりて出でにけり 中嶋夕貴
かなりオーバーな表現であるがのめてしまうのは「春月」ゆえ。それも満月を想像してわくわくする。揺さぶられるのは作者でもある。
葛かづら廃屋一軒まる呑みに 中島よね子
山中でよくかような光景を見る。家が自然に還ってゆくさまをダイナミックにとらえた。
山笑ふ箱にきつちりカツサンド 永嶌英子
眼前にあのカツサンドがしかと見え美味そう。春の山へ来て昼時である。しっかりとした型による安定感と恰幅がある。
桜蘂降る駅前に保育園 中田芙美
「桜咲く」では平凡で「桜蘂降る」として働く女性たちがわが子を預ける朝の忙しさが感じられる。人の営みを静かに見せた句である。
虚子庵の蠅虎の跳びつぷり 中村哲乎
虚子庵へ来て見たものが虚子の書とかではなく蠅虎だったのがいい。それも「跳びつぷり」である。
紅梅や太鼓響かす天理教 中山玄彦
一読して気持ちが晴れ晴れする。「紅梅」「太鼓」「天理教」のハーモニーがいい。
雪柳かくれん坊のこゑうごく 中山美恵子
子どもはかがんであちこちへ動く。それは「まあだだよー」の声でわかる。雪柳のこぼれるさまも見えていい。
引越しの床に坐りて桜餅 西川昌弘
引越し先であろう。とにかく到着した安堵感と空腹。掃除してない床と桜餅の意外性が見どころ。蓬餅でなくて桜餅だからがぜんおもしろい。
すき焼の玉子ふたつめマスオさん 西村五子
マスオさんは長谷川町子作の漫画「サザエさん」の夫。入り婿である。「小糠三合あったら婿に行くな」という諺が長い間流通してきたのは入り婿はどうしても独立性が損なわれるため。この句も漫画「サザエさん」もそれを踏まえていておもしろい。
写真:わが家近く
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