収穫期を迎える水田(故郷・伊那市富県)
藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の8月下旬の作品を鑑賞する。
8月21日
あまつさへ寝違首や秋暑し
「あまつさへ」は、「それだけでも並大抵でないのに、その上さらに悪いことが加わる」という意味。首を寝違えるなどたいへん。暑いだろうな。上五が効いた。
約束の辛(つら)き日なりし灯取虫
会う約束か。起きて出ていくのが億劫。季語がものを言っている。
8月22日
藤村忌山を鎮めの雲ふえて
島崎藤村は木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで始まる『夜明け前』があるから、山を素材にした。雲がふえたのは誰でもいうが「山を鎮めの雲ふえて」が出色。実のある藤村忌である。
秋の蚊は螫したる人を懐かしみ
ほんとうかな、と思うが、おもしろい。
8月23日
きのふより遠きを好み秋の蟬
「きのふより遠きを好み」は、きのう家のそばで聞こえた蟬が今日は遠くで聞こえる、ということか。同じ蟬かどうか詮索せず、そういう感覚はわかる。
秋晴や橋に沁みつくうしほの香
河口近くの橋か。秋晴で澄んだ空と空気を見せておいての「うしほの香」が効いている。
荒草は土をえらばず鰯雲
荒草は生命力旺盛。どこにも生える。中七は言い得て妙。季語を空に転じて雄大である。
8月24日
くもるほど雲ふえてきし桔梗かな
「くもるほど雲ふえてきし」は簡単そうでなかなか言えない。晴天のときに雲はできても散ったり流れたりしてくもらない、という思いが背景にある。自然を見る目の鋭さ。
炎天の見えぬ山見て鴉飛ぶ
暑いときせめて山が見えればとよく思う。「炎天の見えぬ山」は、暑さに呆然とする極めつけの表現。鴉のような華のない鳥がぴったり。
おどろきを三たび言ひたる暑さかな
「暑い暑い暑い」と言ったのであろう。ちょっとしたことだが味のある一句にしている。
8月25日
秋暑し而して松蝕まれ
俳句は五七五しかないのでルーズな言葉が許されないが「而して」は一見遊んでいる。しかしこの橋渡しがこの句の場合ゆとりを生む。結句が「松蝕まれ」ゆえ「而して」が効くのである。
蘭鋳(らんちう)といふひらめきを宙に吊る
「蘭鋳(らんちう)といふひらめき」がこの句のよさのすべて。金魚玉を吊るのである。中空に蘭鋳がひらめく。
もの育つ秋や赤子の放屁また
ふつう野菜なら「もの育つ夏」ではないか。それを「もの育つ秋」として意表をつく。育つものに赤子の屁というのはユーモア満点。
8月26日
露の玉八方の威を拒みをり
「八方の威」はややわかりにくいが、そこに露の玉のようなはかないものがあるのは周囲からの力に拮抗しているから、と作者は見ている。それを読み手も納得できる文脈である。
8月27日
八朔や掲げて志功女神佛
「八朔」は陰暦の8月1日のこと。「志功女神佛」とはおもしろい物を付けた。リズム感と意外性がある。
この路地の杵屋某(なにがし)秋すだれ
上五中七が想像力をかきたてる。簾の奥が気になる。
一瑕瑾なき干潟より秋の風
要するに足跡もゴミもなく砂が広がっていて水がかかると鏡のように見える干潟。風が気持ちいい。
8月28日
惜しきもの無き物置の大西日
いろいろ入っているが金目の物はない。照りつけるだけ照りつけていいよ、という思い。
8月29日
死ぬときも死爪ひとつ天の川
おもしろい句である。今ひとつ爪が死んで黒い。はて、死ぬときも同じ状態なのか。職業が土木工事とか炭鉱夫なら理解できるが字を書く仕事の人がどうして、と疑問を抱く。自分のことでないと読むと、さて誰のことか。いや、やはり自分のことか。
8月30日 箱根強羅
山霧や蛾のたわめたる草の丈
中七下五に味がある。蛾は大きくて葉っぱに止まって草が傾いた。山霧を置いて風格がある。自然に分け入ってこういう句をものにできるのは修練のたまもの。
照りながら雲行く山の芋畑
「照りながら雲行く」がいい。見たものを凝らずに言葉にして言葉がいきいきしている。「山の芋畑」とあっさり置いたのもいい。
8月31日
ひとくちに飯の匂ひや野分後
ひとくち食った飯の匂いが印象的。季語が効いているゆえにいいのである。
盤石のやしなふ苔や避暑期過ぐ
夏が終わる。草はくたびたのもあるが苔はいきいきしている。「盤石のやしなふ苔」が確か。
たわわに実る稲穂はいいですねー
米を食べないから、米が余ると聞いてるのに今夏は足りなくて、
スーパーから米が消えてしまいました
このような原風景は消えないでほしいです
ほとんど雨が降ってない連日の福岡の暑さは、
炎天の見えぬ山見て鴉飛ぶ
おどろきを三たび言ひたる暑さかな
この短さで伝えることができるのが俳句の魅力ですねー