天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』6月中旬を読む

2024-06-19 04:33:15 | 俳句

吉祥寺の水族館付近


藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の6月中旬の作品を鑑賞する。

6月12日
紙魚の書にありて幽かな血の痕も
紙魚は紙を食う。食害を受けた紙に血の痕もあるというのだ。なにゆえの血か。気味の悪い内容。かつて「雁ゆきてまた夕空をしたたらす」と書いたあの美意識からの変遷を目の当たりにする。現実をリアルにとらえていて年期を感じる。

6月13日
蠅飛ぶ中黙考はただ表面(うはべ)だけ
沈思黙考しようとしたようである。けれど蠅がうるさくてできなかった。こんなことも俳句にするとは。

6月14日
太宰忌と寝るころ気づき寝てしまへり
よくあることである。正面から太宰忌に挑まないところがおもしろい。
筆嚙んで書く字想へり麦の秋
自分の俳句を短冊に書こうとしたのか。上五はなるほどと思う。季語も働いている。
をみならも酒飲むことを竹酔日
「をみならも」というあたりに差別意識あり。酒を飲むのは男だけでいい。女は酌をせよ、というような。

6月15日
老人の手に色悪しきバナナあり
時間がたって黒ずんできたバナナか。老人の手は皺くちゃという感じでこれに呼応する。物としての手ごたえのある句。
風かをることに顔あげ畔の人
「薫風に顔を上げたり畔の人」でいいと思うのだがやけに凝った言い回しをした。屈託している。
旅僧の咎めし闇の水鶏かな
このところ先生はかなり屈託した心理である。咎められても水鶏は困ってしまう。私には私の事情があります、と水鶏が言いそう。

6月16日
青竹を登りかねたる蜥蜴の子
これは目が効いていていい。滑って上へ行くのを諦めた蜥蜴の子が見える。
虎尾草(とらのを)のはつかなものを蝶が吸ふ
「はつかなもの」が巧い。わずかなもの、という意味。要するに密を吸ったのであるが、この中七の言い方にこの句のすべてがある。

6月17日
モナリザに蠅虎(はへとりぐも)の近づける
複製の「モナリザの微笑」であろう。そこへ蠅虎が来た。俳句のもっとも単純な表現であるが二つの物が際立ったとき強い印象を与える。この句は強い。
黴の家長身はたと起ちにけり
長身の人がいきなり立ち上がったということだが場所が「黴の家」ゆえにはっとする。俳句はこの一瞬の驚きがあればいい。

6月18日
熱帯魚売るべき水泡旺んなり
変な句である。売るのは熱帯魚であろうが「売るべき水泡」であるから水泡を売るような気がしてならない。
ゆふぐれは匂ひにさとく更衣
「匂ひにさとく」は女性の句にかなり出る文言。湘子に女性的なものがかなりあった気がする。

6月19日
真青な中より實梅落ちにけり
葉と梅が混在して真青で質量もある。そこから梅が落ちてきた。あざやかで実梅の一物として絶品。
一丁目幸稲荷雀の子
動詞が皆無、名詞のみでできている。一丁目に幸稲荷がありそこに雀の子が来た。めでたく明るい。俳句はこれでいい。

6月20日
どぶ板を鳴らして浴衣着くづれて
そりゃあそうですよ。そんな無駄なことしたら着崩れますよ。しかし若い人ならやりそうでこの景色に入っていくことができる。
蝙蝠や男のこころ弱きころ
夕暮れ、蝙蝠が出ると男とても寂しい。さきほど「ゆふぐれは匂ひにさとく更衣」があり、作者の女性性を指摘したが湘子に男女の意識は相当感じられる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« プロ野球のGМをやってみたい | トップ | 初めての欧州 初めてのスイス »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

俳句」カテゴリの最新記事