天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

道場破りの気魄で来い

2018-11-11 13:41:38 | 俳句


きのうのひこばえ句会、シロウ君が初参加した。
今月はじめメールが来て参加していいか問うので歓迎と即答したのであった。会場へ行くと、つるつるの大きな頭があって、ああ、この男性がくだんの人かとすぐわかった。
49歳とのことだがぼくより16歳も年下とはとても思えない。はじめての場所でまったく臆せず堂々といていた。
句歴2年半。西武線沿線に住み、あちこちの句会に行っているという。『絵硝子』も彼が顔を出す結社であり、練馬区主催の俳句会の作品集も持っている。
したがって句会がどういうものか熟知している。

句会後、いつものようにジョナサンへ行って歓談した。
席につくやいなや彼は、助詞の「の」と「に」の選択は難しいということを何の前置きもなく語りはじめた。「に」にすると説明的になるけれどそれで落ち着かせたいときもあるし迷うという。
きのうの句会でぼくは、

暮れ方や水輪の芯の鳰(かいつぶり) 遠藤保資

を特選に採った。「芯」がえらく効いて、この一語が景色の文字通り芯になって景色を締め、冬の夕暮の硬質な感じの水を存分に見せてくれる。
彼はこの場合の芯の次の「の」を問題にしたいのだと直感して、その話題に乗った。「たしかに一本調子になることもあるが力で押し切ったほうがいい場合のほうが多い。<の>は存在に迫る助詞」というと、彼はわが意を得たというばかりに顔が輝いた。
この句の場合、彼はたぶん、
暮れ方や水輪の芯に鳰
というのもあると考えていて、「の」がいいか「に」がいいの判断が難しいということなのだろう。
これはかなり高度なレベルの意識であり、シロウ君のほかにいた男性二人はこのとき蚊帳の外に置かれた感じとなった。
鷹同人でも「に」は説明的で「の」は存在の本質、といった会話に即座に対応できる人はそう多くない。
シロウ君はそうとうの論客と評価したのである。
保資さんの鳰の句、「芯に鳰」のほうが落ち着くかなあ…という気もするのであり、ぼくがこの句の主ならずっと考え続けるかもしれない。

シロウ君という思わぬ論客を得て、ぼくは俳句の季語の不自由さを問題にした。なぜその不自由な季語を俳句に入れて作るのか。外国の詩人が俳句をみたとき、かくも短い一句の中に季語というあてがいぶちの言葉を入れる不自由さを言うに違いない。
つまり俳句は個人の完全自由な表現ではないということ。そもそも日本人は自由など本質的に求めない国民性を有している。季語という共有財産を使うことは共同体の一員であるとの意思表示である。俳句は完全に自由になれないから楽になり救われるのである。精神の半分を季語という共有財が支えてくれるのである。
「自由とは自由であるように呪われていることである」というサルトルら西欧人の見る世界と逆行する俳句の世界なのだ。俳人は孤高の囚われ人でいい。
こういった我が輩の持論を久々に述べる相手が来てくれた。

さてシロウ君、論理や世界観を語るのはいい。問題は理論を実作にどう生かすかだ。いまの君の作句力では高邁な理論が泣く。
もっといい句を書きたまえ。
切っ先を磨いて俺にぶつかって来い。結社に属さない俳人は道場破りの気魄をもって出して来い!ボコボコして可愛がってやろう。



撮影地:多摩動物公園
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3 コメント

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Unknown (シロウ)
2018-11-11 20:41:42
昨日は大変御世話になりました。私の作句上の基本中の基本を「理論」とまで押し上げて頂き恐縮するばかりでございます。

「鷹」の精鋭と野良俳句詠みの俳句談義というのはなかなかシュールな「取り合わせ」でした(笑)。その中で「鷹」のお二人は話の内容を自分なりに噛み砕いて発言されたり、ここぞとメモを録られていましたね。ここでも雑種と血統書の違いがありました。

それでは来月も「可愛がり」を期待してお邪魔させて頂きます。
返信する
「に」と「の」の直感的考察 (ヨミビトシラズ)
2018-11-13 02:09:50
【暮れ方や水輪の芯の鳰】

この句は、単純に「暮れ方に湖を鳰が泳いでいる、その鳰が水面に水の輪を作り出している(故に、水輪の芯に鳰がいる)」という景を書いていると思って大丈夫ですよね?(^_^;)
句意がそうであると仮定した上で、あくまで、私の個人的な直感の話ですが……

俳句において「原因→結果」の句は(特殊な景や比喩を組み込んだ場合は別だが)基本的に論外なので、「原因と結果を含む句」は普通は「結果→原因」の順で書かれる事が多いです。この句の場合は、景全体の事象の結果は「水輪」、原因は「鳰」で、「水輪→鳰」の順に書かれています。定石通りです。
また、「に」と「の」ですが、「AにB」とすると読み手はAとBの事象を並列(それぞれ別個のもの)で捉え、「AのB」とすると読み手はAとBの事象を直列(一まとまりのもの)で捉えるのではないかと私は考えています。

ここで、「結果→原因」の句において、結果の事象と原因の事象を直結させて書く場合、これを「に」で繋いで「AにB」として並列にしてしまうと、どうしたって読み手は読んだ後に前後のAとBを見比べて関連性を探し始めます。すると、じきに読み手はAとBに隠された関係である「原因と結果」に気付いてしまい、納得はするでしょうが説明っぽく感じてしまうのではないかと思います。
これに対して「の」で繋いで「AのB」とした場合、2つの事象を1つの事象として読み手に一気に処理させるので、読み手に余計な読みの時間(思考時間)を与えなくする事ができる上、Aに被さる(上書きする?)ようにして後から出てくるBの印象が強くなります。

この句の場合は、「水輪の芯」という切れのある描写が、それに「の」で被さって出てくる「鳰」を格調高い物に押し上げており、それがこの句の味になっているのではないかと私は思います。
また、「水輪の芯」という切れのある表現と「鳰」という素朴な存在を「に」を使って並列で並べた場合、(原因→結果の問題もあるが、それ以外に)確かに「鳰」まで読み切った段階で落ち着いた後味にはなりますが、「水輪の芯」という凛とした表現のインパクトに対して「鳰」が負けてしまい、季語の味(印象・存在感)がやや薄れる気もします。

特に文法的・意味的な問題がなくて「AにB」と「AのB」の両方とも使える場合、
「AにB」を使う時は、読み手にAとBの事象の関連性をじっくり考えさせて色々なストーリーを練らせたい場合や、二物衝突を狙う場合などが良いかも知れません。逆に、AとBの事象の関連性として考えられるものの種類(読みの幅)が少ない場合や、「原因→結果」の関連性で読まれると味がなくなるようなAとBの場合は、「AのB」で有無を言わさず畳み掛けた方が吉かも。

……以上、長々と失礼しました。的外れだったらすみません(>_<)
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-13 08:57:55
いやー、本物の理論派、論客が現れましたね。まさしく天地わたるさんとジョナサンで語りあって欲しいお方です。
しかも最後のほうでただの「理論馬鹿」みたいな書かれ方をしていますが私はただの馬鹿です。二〇週俳句入門がチンプンカンプンだったのですから。
なもんで難しい話は苦手ですが「鳰」のは変わりに「宇宙人」なら助詞は迷わず「に」ですね。
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