天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

しっかり読んで意識を立てよ

2018-11-13 12:52:21 | 俳句


先日フリースクールで句会をしたとき、敬愛するU先生(88歳)の読みがたどたどしいことが気になった。自分が採った句を恐る恐る読むさまが悲しかった。先生、年なのかなあ…でもたった一行を読むだけだぜ、つかえないでよ、と思った。
40年前彼の授業を見たときぼくは教壇に立って人前で話すU先生の凛々しい姿に何度も打たれたものである。声の張りといい抑揚といい間の取り方といい、これぞ話すことのプロであると駆け出し記者のぼくは仰ぎ見たのである。

その後、鷹俳句会に入ってぼくは藤田湘子の薫陶を受けた。湘子はその作品で門弟を引っ張ったばかりでなく俳句をやる基本姿勢をぼくらに叩き込んだ。その一つが人の作品をきちんと読むことである。
ぼくは何年か前、鷹中央例会において披講・代返係りを担当した。湘子が主宰をしていた時代である。あらかじめ作品集を見てむつかしい読みなどを検討する会があるがそれでも会場に立ったとき、雰囲気にのまれて一瞬どう読むか迷うことをときどき経験した。
そのとき立ち止まるのはよくない、とにかく自分がそう思う読みを通してしまうことが大事であると痛感した。間違ってもいいから堂々と読むことである。
国道へ飛び出た鹿。そこへ車が近づいた。ここで立ち止まる鹿は跳ねられて死ぬ。むしろ走り過ぎたほうが生き延びる。これに似ている。
間違えると遠くで湘子が「違う」といって訂正してくださる。それに従えばいいのであり、びくびくして読みが停滞することのマイナスを避けるべきであると悟ったものである。

ひこばえ句会は発足したときよりメンバーの読みはしっかりしてきたが、それでも声に張りがないとしばしば感じている。
ぼくは俳句を作ることと同時に俳句を読むことを重視している。それは読み解く、読解という意味の読みであるが、もうひとつ、その前の、朗読という意味の読み、発声ということも重視している。
そのことはメンバーの心にまだ染みているとは思っていない。
人の作品をしっかり読むことでまず人と友好的な関係ができるだろう。張りのある声で読んでもらえた句はできばえが1割増しに聞こえるだろう。それが大事である。

湘子は「おまえたちの俳句が下手のはしかたない。しかしできることはやれ」とよく言った。それがまず読んでやることであり、名乗ることであった。「天地わたる選」とはっきり名乗って読むこと。あたりまえもことだが意外にこれができていないのである。
湘子はそういう基本的礼儀をぼくらに叩き込んだ。野球でいうところの全力疾走である。
人前ではっきり読むことは自分の意識を研ぎ澄ますことである。自分の意識にすごくいい影響を及ぼすことと考えてほしいのである。


撮影地:武蔵国分尼寺あたり
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