讀賣新聞7月23日の俳句欄、小澤實選第1席。
日盛や古書肆のなかを蟹歩き 高橋まさお
【評】浜辺近くの古書店。日盛りだが、海水浴客や磯蟹も訪れるのだろう。蟹を踏みそうなのが心配だが、訪れてみたい。全体にK音が頻出、小さな蟹の歩く音が聞こえる。
句と評を読んで何の疑問もなく受け入れていたところ、ふだん新聞の俳句など読まぬヨミトモF子から突如メールが来た。選者は読み間違えているという。
F子は「蟹歩き」しているのは作者だと主張する。したがって作者は1席で採られたが評を読んでがっかりしただろうと作者を気の毒がった。
いつだったか岩国の沖の柱島へ吟行に行ったとき宿の三和土へ赤い蟹がやって来た。これを「またテロのニュース三和土を蟹歩く」と書いた記憶がある。このときF子もいたから本物の蟹と読んでもよさそうだが彼女は違った。
F子の蟹歩きをしている見立ての句という解釈に虚をつかれた。
小澤實さんは擬人化した蟹だとは思いもしなかった。それは小生も一緒。擬人化だとすれば品がない。千鳥足やモンローウォークのたぐいにしてしまっては俳句が死ぬ。したがって選者はそちらの方向の読みを考えもしなかった。リアリズムの句として読んで品がいいし味があるのだ。
「蟹歩き」を動名詞と採るか、「蟹歩く」の連用形とみるかで解釈が真っ二つになる。
上五に季語を置く○○○○やという形では下五の動詞は終止形でもいいし連用形でもいい。鷹俳句会は割とストレートを好み終止形の句が多いが、ここは必ず連用形にせよと指導する結社も多い。
連用形だと揺り返しの味わいが生じそれが上五の季語に波及して句が厚くなるという考えである。最近小生もここを連用形にすることが多い。
俳句をみて俗っぽい方向、低いレベルで読みたくないという心理がはたらくのである。
しかし「私はモンローウォークするから作者も蟹歩きしたのよ」という俗っぽいヨミトモF子の言い分にも理がないとはいえない。
こういうふに読みが割れることもこの短い文芸のおもしろさ。それで話の輪が広がればそれでいい。俳句は曖昧模糊としたものであり、正解がないことを楽しむものなのである。
この論争で小澤實選の第2席の句、
べつたりと指紋つきたり兜虫 天地わたる
がまるで霞んでしまった。F子はこの句に何の関心も持たなかった。
撮影地:多摩医療センターわきの池
所狭しと本が置かれた小さな古本屋の情景が上手に描かれています。