天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子は5月中旬をどう詠んだか

2023-05-14 06:29:12 | 俳句

石首魚(ぐち)


藤田湘子が60歳のとき(1986年)上梓した句集『去來の花』。「一日十句」を継続していた時期にして発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の5月中旬の作品を楽しみたい。

5月11日
ひと夜さは祇園の酒や石首魚(ぐち)もよく
石首魚は硬骨魚。浮き袋を使ってググっと鳴く。これが愚痴を言っているようなのでこの名がついたという。小生は食べたことがないのではないか。「石首魚」などという導入が巧み。

5月12日 奈良
薪能まで松にほふ夜道かな
松の中かそばの道の向こうに薪能の明かりが見える。松の匂いと明かりが調和する。
能篝新樹を夜の花としぬ
新樹の葉はういういしい。緑がまだ薄く白っぽさもある。花と見たのもわかる。

5月13日 同前
大佛の甍は見えて藤咲けり
「甍は見えて」で藤棚のありようが見える。建物のほとんどを隠すほど藤が咲いているのである。いいところの藤の花を見たなあと羨む気持ち。
奈良坂を下りてくれば心太
中七は流しているが旅の句はこれでいい。凝っていないのがいい。

5月14日
鹿の子まだよろこび知らぬ毛づくろひ
「よろこび知らぬ」は踏み込んだ見方。それが俳句を作者のものとする。

5月15日
遠足の列大佛へ大佛へ
「大佛へ大佛へ」で相当の人数を思う。このリフレインは状況を活写して楽しい。
憚るやたけのこどきの寺の藪
竹藪を覗いたのであろう。ここであまり長く見ているとよくないな、と思ったことをすかさず言葉にした。

5月16日
日傘して大和の水田見のかぎり
日傘をしているが水田の照りが目に眩しい。目の前はいちめんの水田。
呼の塔と應の堂宇と青葉闇
「呼応」という言葉がある。一方が呼べば相手が答えること。寺領の中、塔と堂がそのような感じで立っていると見た擬人化。知的な把握だが決まるとおもしろく、この句は決まっている。

5月17日
朦朧のとき朝にあり蝸牛
朝を「朦朧のとき」という。つまり、覚めきらずぼんやりしているということ。それは蝸牛のことではなくて作者のことと読んでこの句はおもしろい。蝸牛自身が朦朧ということもあり得るが、この句は一物ではなく配合の句と読むほうが奥行がある。
ひとたびは揉まれて揚羽籔穂過ぐ
「ひとたびは揉まれて」は目が効いている。それが揚羽だから哀れというより華やかである。「籔穂」は聞きなれぬ言葉だが字面からイメージが湧く。華やかで豪放で気に入った。

5月18日
桐の花笛にあてたる唇おもふ
桐の花を見ての想像であろう。桐の花と笛は優雅に引き合う。それをさらに唇までもってゆくのが湘子の美意識。
藤夕べ手圍の燈をみほとけへ
「みほとけ」などという古色蒼然とした言葉を湘子が使うとは思いもしなかった。「手圍の燈」もよく使われる表現。マッチを擦ったのか。湘子がこういう材料を句にしたことに驚いた。こういう句が小句会で出たら「古いけどできていて落とすに忍びないから採るか」といったところ。

5月19日
﨟たけてぼたんざくらの下にゐる
ただただ美しい女性を思う。美しいものを表現するのは巧い。
黒揚羽古墳の丘を堕ちきたる
「堕ちきたる」は飛行機の墜落を思う表現。揚羽蝶でなく黒揚羽だから下五が効く。迫力がある。

5月20日
萍に至りし月夜一度きり
難解な句である。萍に至ったのは作者なのか月なのか。「一度きり」というからには三度ほどこの萍に立ち会ったのか。現鷹主宰より前鷹主宰はむつかしい句を書く。心象に入り込みすぎていないか。
たんぽぽの絮飛ぶほどに渇きをり
はじめ「乾きをり」と読んでつまらないと思い読み返した。「渇きをり」は作者である。作者の心中である。納得したが小生はそう感じたことがない。
コメント
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