天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

記事をまとめようとし過ぎる

2014-09-17 04:26:52 | 世相

朝日新聞が慰安婦報道において嘘の証言者にたやすくひっかかったこと、原発事故処理に当った人々の一時批難を撤退と曲解したこと。
これらの背景には事実を厳正に見るというよりはじめから思惑があったことが伺われる。さらに記事をまとめようという心理が強すぎたのではないか。

二男が小学生であった二十余年前ぼくは国語の授業をしたことがある。
担任が進取の気性に富んでいた。俳句をやっているぼくを授業に招いたのだ。はじめに「俳句を読む」次に「俳句をつくる」そして「句会」というふうに授業を展開した。
「俳句を読む」時間ではぼくの幼稚な句をいくつか黒板に書いて思うことを自由に子供たちに語ってもらった。
どんな調子はずれの意見もにこにこして聴いていた。教室は笑いが絶えなかった。
うしろに担任と校長が授業を見ていた。

授業後にコーヒーを飲みながら担任、校長と話をしたとき彼らが口をそろえて
「どういうふうにまとめるかハラハラしていました」という。
思いもしない感想に驚いた。
俳句の鑑賞などでまとめる必要があるのだろうか。めいめいが思ったことを言えばいい。いろんな読みがたくさん出ればいい。
ぼくは言いたいように言わせてただにこにこしていただけである。
こんなことをまとめられてしまったら一人一人の発言は否定されることになるんじゃないか。
ぼくはそのとき背筋が冷えた。進取の気性に富んでいた教師にしても本質からずれているように感じた。

今回の朝日新聞の事件についても「まとめる」という意識が強くはたらきすぎていなかったかと思う。
はじめがあって終わりがある文章は必ず「まとめる」意識がはたらく。
そうしないと読む人が迷ってしまう。けれどその意識が強すぎると記事は公正さを欠き事実から離れやすくなる。
一般の記事は「天声人語」や社説とは違う。

文芸作品はむろん「まとめる」意識が濃厚でありそれがおもしろさに通じる。
けれど作品であってもまとめる意識がまるで低いものがありその代表が宮沢賢治であろう。『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』など世に知れた作品は完結度が高いがほかの短編の多くを彼はまとめようとしていない。
悪くいうと中途半端なまま放り出している。
作者は何を言わんとしているのか悩む。
しかしこれは新鮮な感覚でもある。

宮沢賢治のあまり知られていない短篇は新聞記者がぜひ読んでほしい種類の文章である。作品としてレベルが高いかは別にして読者を妙に誘導しないおもしろさに満ちている。
まとめを意識しない世界である。
コメント
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