天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

象の耳を見に行く

2014-09-11 18:13:17 | 俳句

吉祥寺のアジア象「はな子」

雨が降ったり止んだりしていたが吉祥寺の動物園(井の頭自然文化園)へ出かけた。
ネットの「どすこい句会」で幹事から「耳」という題が出されていて、象の耳を考えていたが耳の映像がとんと浮ばない。
いつだったか、「鳥雲に象の花子の耳ぼろぼろ」と書いたことがある。このときの耳は想像力が先行した。どこかで見たアフリカ象の芭蕉の葉みたいに大きい耳がイメージの核にあった。
「花子」というのもなにかのニュースで見た象の名前であった。
その後、吉祥寺の動物園にいる象が「はな子」という名前であることを知った。
ほんもののはな子の耳はどうなっているかにわかに見たくなった。

はな子を見てびっくりした。はな子はアジア象であってアフリカ象ではなかった。
ぼくのイメージしていた耳とは違ってえらく小さく、「耳ぼろぼろ」とはかけ離れていてしっかりしていた。
ここのはな子じゃだめ。芭蕉の葉のようなアフリカ象を探検したくなった。
はな子の尻尾は豚のように細くとりとめもなく動いていた。
「象の尾の細きが動く秋思かな」という感じ。
目は窪んでいてくしゃくしゃしていて年を感じる。
「象の目の蕭条として秋の雨」。
発表できるレベルの句ではなくスケッチていど。まあいいか。

実際のはな子の耳が芭蕉みたいに大きのでなくてぼくの思惑が狂ったのと朝日新聞が慰安婦問題の強制連行をでっち上げた心理とは似ている。
ぼくは書きたいイメージが頭の中でふくらんでいた。こうあってほしいとはな子の耳を夢想していた。けれど実際は小さかった。
ぼくは自分のイメージを押し通すためにもしかしたらアフリカ象を見に行くかもしれない。たぶんアフリカ象で似たものを感じることになる気がする。
朝日新聞も強制連行を訴えたくて事例を探し回ったのだろう。そして嘘の証言者にひっかかって墓穴を掘った。

詩や絵画や文学においては作者のイメージ先行、事実あと追いはなんの問題もない。見ずに書いた映像と実際に見た場面がぴったりだっということはたびたび経験してきた。
しかし、新聞でこれをやったら万死にあたいするだろう。
刑事事件の捜査過程で捜査員が証拠を捏造してしまうのと一緒。見込み、思惑で事実を曲解したり捻じ曲げたりしてはいけない。

詩文芸において事実と真実の間に距離があってもなんら問題はない。
けれど新聞という報道の言語は厳格な事実だけである。そこに詩文芸の自由と楽しさがある。

さて、吉祥寺のはな子は何を見て五七五にしてやろうか。できるかなあ…できなかなあ…できなかったら、はな子さんごめんなさい。


どこかのアフリカ象
コメント
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