毎日新聞9月7日付の「みんなの広場」に、「俳句の掲載中止に恐れ入る」という題で植木國夫さん(福島市)の意見が載った。
彼は次のように語る。
さいたま市の公民館が「公民館だより」の俳句コーナーに、サークルが選んだ俳句の掲載をとりやめたという。その句は「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」で、「世論が大きく分かれる問題で一方の意見だけ載せられない」からだとか。
俳壇の大御所、金子兜太氏は「社会の一事象と言えるほどの動きを柔らかく優しく書きとめた俳句に、大の男が大騒ぎするとは恐れ入った」と評し、「九条の緑陰の国台風来」と詠んでいる。(以下略)
兜太さんのいう通りで「世論が大きく分かれる問題」というのは大げさであり、俳句を意見としてみていることに違和感を持つ。
俳句を書く方も掲載する方も俳句を意見と考えているのがこの投書によく出ている。
俳句を意見発表の場と考えて作っている人は世の中にそうとういる。
添削していると福島の災害について慨嘆したり、平和を守れと叫んだり、年金が安いから上げてくれ要求するような句にあまたお目にかかる。
そういった意見俳句は添削のしようがなく、俳句というのはそういうことをお書きになるものじゃありませんよ、ということを言いたくなる。
兜太さんの意見はまっとうだが「九条の緑陰の国台風来」がそんなに高いレベルの句だろうか。
「緑陰」と「台風」の季語のダブりはテーマをおぼろにしている。「九条の国」としたほうが切れ味は出る。受講生の句なら季語を一つに絞るよう指導しているだろう。
兜太さんには社会、戦争を詠んだもっと抑制の効いた秀句がある。
湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 同
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ 同
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 同
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ 同
俳句というのは声高にハンターイと叫ぶようなものではない。デモ行進するような俳句はすぐさま政治に利用されてしまうだろう。それでは文芸は立つことができない。
ましてや五七五しかない非力な俳句は。
俳句を何かのために役立たせようという発想がそもそも無理なのだ。
自分を見据えて自分をしかと詠むことでうすうすと背後の時代や環境をにじませることができたら上出来。そういった味わいは時代を越えて生き、色褪せない。
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
てんと虫一兵われの死なざりし 安住 敦
瓦礫みな人間のもの犬ふぐり 高野ムツオ
手がありて鉄棒つかむ原爆忌 奥坂まや
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
てんと虫一兵われの死なざりし 安住 敦
瓦礫みな人間のもの犬ふぐり 高野ムツオ
手がありて鉄棒つかむ原爆忌 奥坂まや
こういった俳句は時代を越えて生き続けるだろう。
「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」、「九条の緑陰の国台風来」などと比べて作品としての奥行と想像力の多様性はうんぬんするまでもない。
俳句の基本は自分を書くことであって社会にメッセージを発信することではない。安易なメッセージは俳句を汚すし自分の感じ方をたやすく人並みにして安心してしまうことに通じる。
俳句を書くということは人と群がることではなく孤立を恐れない精神なのである。