プラハのカレル橋
俳句の添削をしていて「短夜や都市伝説の糸車」というような句に遭遇した。
雰囲気はあるのだが中七があいまい。なんとかしたいがこの観念性はどうにもできず、添削はしたいがどうすることもできないと受講生に伝えた。
ぼくが「都市伝説」という言葉を知ったのはテレビのサスペンス系ドラマの宣伝文句であった。
このとき何のことかさっぱりわからず Wikipediaのお世話になった。
Wikipediaによると、
「都市伝説」という言葉が、日本に登場したのは1988年のジャン・ハロルド・ブルンヴァンの著書『消えるヒッチハイカー』が大月隆寛、重信幸彦ら民俗学者によって訳された、アーバン・レジェンド(Urban Legend)という造語の訳語としての「都市伝説」が最初である。
ああ、翻訳語か…。
恩田陸の『夢違』を読んでいたらこの言葉についてのコメントがあった。
「多くの人が潜在的に抱いている不安。願望。あるいは、無意識のうちに感じている可能性。そういったものが形になったのが都市伝説だと思いますね」
作中人物にこう語らせているのであるが、これを読んでもよくわからない。こんな言葉に言及しないほうがこの小説のグレードは上がったのではないかとさえ思う。
篠田節子の『廃院のミカエル』は読んだ。以下の内容である。
商社現地社員の美貴は、ギリシャで口にした蜂蜜にビジネスチャンスを見出し、通訳の綾子や偶然知り合った壁画修復士の吉園とともに産地の村を目指す。だが途中、廃院となった修道院に迷い込んでしまう。独居室の壁に描かれた大天使ミカエルの絵。無人の聖堂に響く祈りの声。逃げるように街に戻った後も次々と奇妙な事件が。綾子の異様なふるまい、相次ぐ村人の死、積み重なる家畜の死骸…。かつて、あの修道院で何が起こったのか。
この異常なできごとにはきちんとした原因があるのだが、『廃院のミカエル』のこのような内容のことを「都市伝説」というのだろうとは思う。
夢と幻想を誘う言葉であってつかみどころがない。
こういう言葉を五七五という究極の短い文脈に持ち込んで成功するはずがないのだ。
熟語、それも敢えてつくった熟語は危険である。言葉はばらして使う感覚でないと俳句という器は機能しないのだ。