昨夕、米子の孫が帰り、にぎやかだった盆も、今日から静かに。午前中は礼拝、午後からは、ネット碁などをしてマイペースで過ごす。
ひとと話をするときには言葉に気をつけましょう。
一度口から出た言葉は二度と取り返しがつかないからです。
言葉でひとを傷つけることは、肉体を傷つけるのと同じです。
バレンタイン・デ・スーザ著 「そよ風のように生きる-旅ゆくあなたに」より
人は人に対して壁を作らず、橋を作るように。
橋は愛によって作られます。
バレンタイン・デ・スーザ著 「そよ風のように生きる-旅ゆくあなたに」より
夕食をとりながらNHKの思い出のメロディーを見る。
「戦後70年 喜びも悲しみも歌とともに」ということで、終戦後から近年までの歌が。
一番良かったのは、梶芽衣子「怨み節」。迫力満点。その当時を思い出す。誰にも思い出の歌がある。
正しさよりは幸いを
正しく生きよ、と言います。
しかし、生きることにとって、正しさとはそれ程大切なものでしょうか。
大体正しさを口にしていると、必ずといってよい程、争いになるではありませんか。
イエスは、心の清い人たちはさいわいであるといわれましたが、
そういう人たちを正しいとはいわれなかったではありませんか。
正しく生きようとするよりは、幸いに生きようと心がけましょう。
ただしその場合に幸いを人と分かち合う心だけは決して忘れないように。
それでよいのです。
正しく、正しくとあまり言わない方がよいと思います。
藤木正三著 断想 神の風景 人間と世間より
わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。詩篇三九5
「年を取ることは悲しいことではない」と言うことは難しく、そう言える人は、ほとんどいないでしょう。
もし、あなたが過ぎ去った年月を取りもどそうと努め、髪が白くならないように、
また目がかすみ、額にしわが寄らないようにしたいと思っているなら、確かに年を取ることは悲しいことです。
しかし、この世で最も美しいものの一つは、経験を積んで、より寛容に、よりやさしくなった老人です。
人間をその弱さにもかかわらず愛することができ、青年たちをその若さのゆえに軽んじない老人です。
そのような人は、古いストラディバリウスのバイオリンにたとえることができます。
年を経るにつれてその音色は洗練され、その価値は百倍にもなります。そして、まるで魂を宿しているかのようになるのです。
チャールズ・ワグナー
日の出に向かって カウマン夫人著より
お互いさま
敵を愛することは最高の美徳のようにいわれていますが、
よく考えてみると、 敵など現実の生活にはいないのではないでしょうか。
敵が誰か、具体的に考えてみましょう。 嫌いな人はいます。 腹の立つ人、 不愉快な人もいます。
しかし、敵というおそろしい言葉で呼ぶべき人は、 そうやたらといるものではありません。
敵を愛するという美徳を、 滑稽な気負いにしてしまう位に、 現実というものはお互いさまなものです。
仮想の敵に備えるよりは、 お互いあまり変わりのないのですから、ゆるしゆるされて生きてゆく方が、 足が地についています。
藤木正三著 灰色の断想より
散って生きる
一人で事をなすよりは志を同じくするものが結束すれば効果的でしょうし、それに仲間もできて淋しくありませんから、
結束することを当然のことのように、私たちは思っています。
しかし、結束には個人の微力からのあせり、個人の孤独からの逃避、要するに個に対するごま化しが、
そして何より力をたばね合わせて事を成し遂げようとする人間の自己完結が、そこにはあります。
結束が固ければ固いほど何か芝居がかってくるのは、そのためでしょう。
私たちは実は、普通考えているよりもっと散って生きるべきものなのです。
藤木正三著 断想 神の風景 人間と世間より