人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

すべての事は愛のみ手より来るなれば はなはだ善し

2012年08月15日 | お気に入りの言葉

荒野の泉 カウマン夫人著より
 神のみ旨の中にわれは立つ
ここには神のみ旨のほか とどくことなし
すべての事は愛のみ手より来るなれば はなはだ善し
そはわが生涯を計画せしはわが父にいませば

 悲哀の波の中を通らんか
われはこのことの最善なるを知る
われはその理由を知らざれど寄り頼みて祝福せらる
神は愛にして真なれば全き平和の中にわれはいこう

 蔭にも ひなたにも 歓喜にも 苦痛にも
主よ われはなんじに頼る
わがままなる子は訓練され
地上の損失はしばしば天上の益となる


楽しむことが人生の目的

2012年08月12日 | お気に入りの言葉

シスター鈴木秀子の愛と癒しの366日より

楽しむことが人生の目的

「楽しむこと」、それが人生の目的です。
娯楽ではありません。人間であることの意味、生きていくこと意味、
死の意味など、人生をつくりあげる根底に目をむけながら、
ほんとうに人間らしく、よい意味でかしこく、快適に楽しく生きることです。
楽しむことを後ろめたく感ずる必要はありません。
仕事を精いっぱい楽しめるのは最上です。
もし仕事に変化がなく、つらければ、さっさと仕事をかたづけて、
楽しいことに打ちこむことです。
今、必要なのは「心のゆとり」であり、
楽しむことを罪悪視しない、「楽しむことへの理解」です。

 


誉れと栄光を求める心

2012年08月09日 | お気に入りの言葉

今日の詩篇明日の詩篇 羽鳥明著より
誉れと栄光を求める心

高く上げることは、東からでもなく、
西からでもなく、荒野からでもない。
それは、神が、さばく方であり、
これを低くし、かれを高く上げられるからだ。(七五・六、七)

私たちの心の中には、誉れを求め、栄光を追求する心がないでしょうか。
これは決して、卑しめたり、ないがしろにしたりすべきことではありません。
誉れや栄光を求める気持ちは、食欲や性欲と同様、神が与えてくださった心の願望だと思います。
ですから、子供を正しく育てるポイントの一つは、この心の欲求を梃子として、人間の尊厳としての誉れと
栄光を正しく求める人となるように育てることにあるではないでしょうか。
愛すること、きよく生きること、仕えることなどに誇りを持たせることです。
 ところが、この心の欲求がねじけたり、間違ったものになると、たいへんです。
高ぶりは人生を腐らせるばい菌です。学歴や権力や富わ誇るところに、
試験戦争、。権力闘争、経済戦争という、すべての戦争が起こってきます。
何を誉れとし、何を栄光として求めていくかが私たちにとって問題です。
本当の誉れは、人が与えるものでも、自分が認めるものでもありません。
神が与えてくださるものです。ですから私たちは、人前の誉れではなく、神の誉れ、神に喜んでいただくことを求めるべきです。
そのためには「神を知る」必要があります。神のきよさ、力、その愛と恵み、そのご計画を知ることこそ、
勝利の人生への鍵ではないでしょうか。
聖書にはこう書かれています。「主はこう仰せられる。『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを』」
(エレミヤ九2324)


むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。

2012年08月08日 | 聖書

エレミヤ書9:22-23
 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。
力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい
目覚めてわたしを知ることを。

知恵、力、富等などを誇ることなく
キリストを知っていることを誇れるように。


「神」は、あなたにとって真実の響きを奏でられるでしょう。

2012年08月07日 | お気に入りの言葉

谷間の泉 カウマン夫人著より
人生があなたに何をもたらそうと、
「神」はあなたにとって真実の響きがするでしょう。
空にある星
貯蔵室の食糧
手の中の杖
かたわらの友達
道を照らす光
心の中の喜び
耳に響く音楽
口にある歌
そうです。あなたの人生が過ぎ行くのと同じ速さで
またあなたの太陽が輝くのと同じように
暗く暑い日も、
突風が吹くのと同じくらい厳しく、
引き当てた運命がどんなに孤独でも、
人生があなたに何をもたらそうと。
「神」は、そうです。
あなたにとって真実の響きを奏でられるでしょう。
チヤールズ・ハーバート


沈黙は、祈りの美しい実です。

2012年08月06日 | お気に入りの言葉

 マザー・テレサ 日々のことばより
  沈黙は、祈りの美しい実です。
私たちは言葉の沈黙だけでなく、
心の沈黙、
目の沈黙、
耳の沈黙、
精神の沈黙、
私たちが五つの沈黙と呼んでいる
これらの沈黙を身につけなければなりません。
さあ、あなたの5本の指を使って
言ってみて、そして覚えてください。
 


盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか

2012年08月05日 | 聖書

ヨハネによる福音書11:32-37
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 我々もユダヤ人の様に、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」
と言いやすい。「このような不幸、災難を起こさないようにできなかったのか」などなど
しかし神の時、神のみこころ、がある。この後、ラザロのよみがえりがある。