人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

あわれみの神。

2016年04月13日 | お気に入りの言葉

主はあわれみに富み、恵みふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。 詩篇一〇三・八

 神は決してめぐみふかい神ではない、と言う人が大ぜいいます。

 もし神が恵みの神であるならば、今この世界の人々を苦難や欠乏の中におかれるはずはない。妻は、酔いどれの主人のために日夜どんなに苦労していることだろうか。また大酒飲みや、犯罪者を父に持った子供たちのことを考えてみるがよい。性の邪道に迷いこむ子供たちの事や世界大戦がもたらした数えきれないほどの悲劇を考えてみるがよい。

 もし神が大能であり、そしてこのような悲惨なことを引き起こさせながら、それを平気でながめているのならば、神は恵みの神ではない、と言う人たちがあるのです。

 そのとおりです。神のあわれみに対して疑問をいだかせるためには、何もわざわざ世界大戦を引き合いに出す必要はありません。

 神はあなたから健康を奪いました。あなたの金も、妻も子も取り去ったのです。あなたの手から幸福のすべてを取って、あなたの目の前でそれを踏みつぶしてしまいました。    

無慈悲ではありませんか。

しかし、他方には、神はあわれみ深く、恵みに富んでおられるという人がいます。彼らは、どうして神をそのように見ることができるのでしょうか。

私たちはどうしたら神の恵みとあわれみを知ることができるでしょうか。この問いに答えうるような経験をもつことは、私たち自身の魂のためにも、また他の人たちのためにも有益なことだと思います。

イエスがあわれみ深いおかたであられたので、神もあわれみの神であることがわかります。イエスよりもあわれみのある人を思い出すことができますか。イエスほどあわれみに富む父とか母は絶対にありえないのです。あるいはまた、イエス以上に病める人間の魂のために、愛情を惜しみなく注いだ人もありません。

イエスは、神があわれみの神であることを、私たちに示して下さったのであります。人間のみじめさをごらんになった時、神は、天国だけに閉じこもっていることができなくなりました。神は馬小屋の中に、人との形をとって生まれ、十字架につけられて死ぬために、天上から人間の困窮の世界にまで下られたのであります。神は、神にそむく者たちがみ子イエスを十字架にかけることをこばまれなかったのです。なぜなら、神が人間をお救いになる道は、これ以外には無かったからであります。

ああ、慈悲深い神よ。わたしたは、あなたを今より永遠までもほめたたえます。

 O・ハレスビー著 「みこさばの糧 ・365日の黙想」より