昭和54年に「中正機場(桃園空港)」が開港されるまで台湾の空の玄関は
台北市内の「松山機場」でした。
今でも高速公路(高速道路)をはさんだ北側に有る国内線の松山機場(空港)」
です。
何故に覚えているかは・・・長男が誕生した1979年だから。
当時は蒋介石政権の国民党政府で軍事独裁政権でした。
中共とは臨戦態勢にあり自由は少なかったのです。
「入境(入国)」のイミグレーションでは長髪の「ヒッピー風」は審査が厳し
かった。
「海関(税関)」検査も執拗で厳しく日本語の出版物や英語の雑誌などは持ち
込み禁止です。
もし知らないで雑誌、新聞などを持ち込むと・・・没収でした。
しかし台湾の高度成長が始まったのもこの頃からです。
台北市内には高層建築も少なく長閑でなんだか昔の日本の佇まいがあちこちに
見かけられた。
いまも国内線の「松山機場」は同じ場所に有りますが少し寂れた感じがします。
しかしその感じが当時を彷彿させてなんとも懐かしい・・・
台北市内の「松山機場」でした。
今でも高速公路(高速道路)をはさんだ北側に有る国内線の松山機場(空港)」
です。
何故に覚えているかは・・・長男が誕生した1979年だから。
当時は蒋介石政権の国民党政府で軍事独裁政権でした。
中共とは臨戦態勢にあり自由は少なかったのです。
「入境(入国)」のイミグレーションでは長髪の「ヒッピー風」は審査が厳し
かった。
「海関(税関)」検査も執拗で厳しく日本語の出版物や英語の雑誌などは持ち
込み禁止です。
もし知らないで雑誌、新聞などを持ち込むと・・・没収でした。
しかし台湾の高度成長が始まったのもこの頃からです。
台北市内には高層建築も少なく長閑でなんだか昔の日本の佇まいがあちこちに
見かけられた。
いまも国内線の「松山機場」は同じ場所に有りますが少し寂れた感じがします。
しかしその感じが当時を彷彿させてなんとも懐かしい・・・