今日も寒く、時折雪がちらついております。
以前、本ブログで“まなご石”について質問を頂いた方から、では「お墓参りの時、米をまくのはなぜだろう?」というご質問があったのですが(2007.11.16のブログ・コメント参照)、私はわからないままでおりました。ところが、最近ふとしたことから、この質問に答えられそうなことが思いあたりましたので、再び妄想しました。思えば、うかつでした。
解く鍵は、米⇒しゃり⇒舎利 です。皆さん、もうお分かりのことと思います。
すし屋では、米・ご飯のことを「しゃり」と言いますね。この「しゃり」は、仏教用語の「舎利」が語源のようなのです。「舎利(仏舎利)」は、火葬されたお釈迦様の遺骨のことで、火葬された後に残る粒状の骨が米に似ているので、こう呼ばれるようになったそうです。そして、舎利は仏教では大変尊ばれているものです。この仏舎利は、輪廻の教えによると、まわりめぐって五穀にもなり、人間を助けるものと考えられました。そして、特に主食としての米が貴重だった日本(もちろん弥生時代以降です)では、仏舎利と同じようにお米は尊いと感じ、お米は仏様の化身である、という風に考えるようになり、ご飯や米を「しゃり」と呼ぶようになったのとのことです。
ということは、お墓に米をまくという事は、「舎利をまく」ということになるのでしょう。残念ながら、私は米のまき方(作法)を知らないのですが、おそらく乱暴なまき方をするのではなく、墓石の周りに丁寧にまくのではないかと思われます。そして、米が仏様の化身だと考えるならば、まかれた聖なる米(=舎利)に囲まれた墓(=死者の魂)が、“舎利パワー”によって、どんどん浄化されていくことを願うのではないでしょうか。また、輪廻転生によって、生まれ変わって再びこの世に来ることを願っているのかもしれません。
そうであるならば、“まなご石”を供えることも同じ意味合いのように思えてきます。米がなかった時代・当地域にあって、そんな風習をどこからか聞いた村人が、「わしらの村にゃ、米がないけん、その代用品を」と思い、色・形の似たまなご石を「舎利」に見立てたのではないだろうか、と。
ちなみに、この「墓に米をまく」という風習は、関東の一部の地域、その他にも残っている地域があるようです。また、我が地域などでは、葬儀の出棺の時、故人の茶碗を割りますが、備後地方では、葬儀のあと門口で茶碗を割り、米をまく風習があるようです。
この「墓に米をまく」風習と関連があるかどうかわかりませんが、ある地方では、「川に米をまく」習慣があるようです。このことが、「サバを読む」という表現の語源と関係していることを知り、興味深い話だと思いましたので、概要をご紹介します。
「サバ」とは、余分に取り分けられたご飯・米のことだそうです。つまり、仏前に供える、自分たちが食べるご飯の量以外にあらかじめ余分に炊いておく米のことだそうです。その余分な米の量をあらかじめ計算しておくことを、「サバを読む」と言うのだそうです。そして、自分達が食べる時に、盛分けられたご飯の中から数粒のご飯粒を取り出す。このことを「サバを取る」と言うそうです。なぜこういう面倒くさい(失礼)ことをするかというと、自分達が食事できることに感謝するとともに、自分達だけが食べるのではなく、飢えに苦しむ鬼神、餓鬼、畜生などにも分け与えようという意味があるようです。こうして、取り分けられたサバは、後で寄せ集めて川に投げいれて供養するのだそうです。
もしかすると、墓に米をまくことも、ご先祖様のためだけではなく、同じような意味合いがあるのかもしれないとも思えてくるのです。
・・・こうして、まだまだ未解決白頭巾の旅は続くのです。
以前、本ブログで“まなご石”について質問を頂いた方から、では「お墓参りの時、米をまくのはなぜだろう?」というご質問があったのですが(2007.11.16のブログ・コメント参照)、私はわからないままでおりました。ところが、最近ふとしたことから、この質問に答えられそうなことが思いあたりましたので、再び妄想しました。思えば、うかつでした。
解く鍵は、米⇒しゃり⇒舎利 です。皆さん、もうお分かりのことと思います。
すし屋では、米・ご飯のことを「しゃり」と言いますね。この「しゃり」は、仏教用語の「舎利」が語源のようなのです。「舎利(仏舎利)」は、火葬されたお釈迦様の遺骨のことで、火葬された後に残る粒状の骨が米に似ているので、こう呼ばれるようになったそうです。そして、舎利は仏教では大変尊ばれているものです。この仏舎利は、輪廻の教えによると、まわりめぐって五穀にもなり、人間を助けるものと考えられました。そして、特に主食としての米が貴重だった日本(もちろん弥生時代以降です)では、仏舎利と同じようにお米は尊いと感じ、お米は仏様の化身である、という風に考えるようになり、ご飯や米を「しゃり」と呼ぶようになったのとのことです。
ということは、お墓に米をまくという事は、「舎利をまく」ということになるのでしょう。残念ながら、私は米のまき方(作法)を知らないのですが、おそらく乱暴なまき方をするのではなく、墓石の周りに丁寧にまくのではないかと思われます。そして、米が仏様の化身だと考えるならば、まかれた聖なる米(=舎利)に囲まれた墓(=死者の魂)が、“舎利パワー”によって、どんどん浄化されていくことを願うのではないでしょうか。また、輪廻転生によって、生まれ変わって再びこの世に来ることを願っているのかもしれません。
そうであるならば、“まなご石”を供えることも同じ意味合いのように思えてきます。米がなかった時代・当地域にあって、そんな風習をどこからか聞いた村人が、「わしらの村にゃ、米がないけん、その代用品を」と思い、色・形の似たまなご石を「舎利」に見立てたのではないだろうか、と。
ちなみに、この「墓に米をまく」という風習は、関東の一部の地域、その他にも残っている地域があるようです。また、我が地域などでは、葬儀の出棺の時、故人の茶碗を割りますが、備後地方では、葬儀のあと門口で茶碗を割り、米をまく風習があるようです。
この「墓に米をまく」風習と関連があるかどうかわかりませんが、ある地方では、「川に米をまく」習慣があるようです。このことが、「サバを読む」という表現の語源と関係していることを知り、興味深い話だと思いましたので、概要をご紹介します。
「サバ」とは、余分に取り分けられたご飯・米のことだそうです。つまり、仏前に供える、自分たちが食べるご飯の量以外にあらかじめ余分に炊いておく米のことだそうです。その余分な米の量をあらかじめ計算しておくことを、「サバを読む」と言うのだそうです。そして、自分達が食べる時に、盛分けられたご飯の中から数粒のご飯粒を取り出す。このことを「サバを取る」と言うそうです。なぜこういう面倒くさい(失礼)ことをするかというと、自分達が食事できることに感謝するとともに、自分達だけが食べるのではなく、飢えに苦しむ鬼神、餓鬼、畜生などにも分け与えようという意味があるようです。こうして、取り分けられたサバは、後で寄せ集めて川に投げいれて供養するのだそうです。
もしかすると、墓に米をまくことも、ご先祖様のためだけではなく、同じような意味合いがあるのかもしれないとも思えてくるのです。
・・・こうして、まだまだ未解決白頭巾の旅は続くのです。