1987年に刊行されベストセラーとなった村上春樹の代表作「ノルウェイの森」を、『青いパパイヤの香り』『夏至』などのトラン・アン・ユン監督が映画化。亡くなった親友の恋人との関係を通し、主人公の青年の愛と性、生と死を叙情的につづる。主人公には松山ケンイチ、大切な人の死をきっかけに主人公と心を通わせていく女子大生に菊地凛子がふんし、複雑な人間性を繊細に演じる。トラン・アン・ユン監督のみずみずしい世界観と、深遠な村上春樹ワールドの融合に期待。[もっと詳しく]
34歳の僕は、『ノルウェイの森』を、3ヶ月もかけて少しづつ読み進めたのだった。
村上春樹は4歳年上だ。
『ノルウェーの森』が上梓されたのは1987年だが、1949年生まれの村上春樹は、37歳の主人公がドイツ行きの機内で、ビートルズの「ノルウェイの森」を聞いて、18年前(1969年)、つまり19歳の自分を回想するという設定をしている。
政治の季節の数年間の差は、とても経験として異なるものだということは差し置いたとしても、とりあえず、同世代的感覚で言えば、34歳の僕がこの小説を読みながら、同じように十代後半の自分と世界の空気を回想するような思いで、小説世界に入っていったことをよく覚えている。
村上春樹は、1987年3月7日に、早朝から17時間を費やして、憑かれたように『ノルウェイの森』の第一稿を書き上げている。
1979年のデヴュー作『風の歌を聴け』や80年『1973年のピンボール』は、抒情的な青春小説の色彩が濃かったが、その後の『羊を巡る冒険』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』などはハルキワールドの迷宮のような物語世界を緻密に構成したものだった。
だからというわけではないが、自ら手掛けた緑と赤の上下巻の装丁で、「100%の恋愛小説」と銘打って本屋に並んだ時には、くだらぬ自意識が働いたのか、本を手にとってレジに行くのが少し恥ずかしかったことも、またよく覚えている。
34歳の僕は、母親の末期の癌や、十年ほどいた会社を離れることや、数歳になった子供と相方と離れ離れに暮らしていることや、いろんなことが重なって、来る日も来る日もぼんやりと考え事に明け暮れている時だった。
そうした時に手に取ったのが『ノルウェイの森』であり、主人公のワタナベトオルや、高校で自殺した親友のキズキや、その恋人であり偶然再会した直子や、ワタナベの同級生のこましゃくれたしゃべり方をする緑や、といった登場人物たちのどこか腫れ物に触るような傷つきやすい心の動きを追いながら、小説世界を楽しむと言うよりは、自分のなかの十数年にわたる時間の流れを反芻していたような気がする。
だからとても簡潔な文体である『ノルウェイの森』を読み始めれば数時間で読了できるようなものなのに、僕はどういうわけか3ヶ月ほどかけて、あえて少しづつ少しづつ読み進めたのだった。
そして女友達と、深夜の長電話でこの小説をめぐるおしゃべりをなんの結論が出るわけでもなく、延々としゃべっていた記憶がある。
受話器がそのままで眠ってしまって、月に電話代が十万を超えることも普通だった。
『ノルウェイの森』という映画に関しては、たぶん誰かとこの映画のことで、延々とおしゃべりするということはないように思える。
もちろん、『青いパパイヤの香り』や『夏至』などの作品を通じて、トラン・アン・ユン監督は知っている。
世界中からいくつも映画化のオファーがあっただろうに、この監督が指名されたのはなんとなくわかるような気もする。
1000万部を超えた超ベストセラーの映画化は、誰がやっても困難なところがあるが、あまりシナリオ主義ではなく、現場で演出プランを考えるこの監督の控えめとも思える演出は、拍子抜けするほどあっさりとしているようにも思えるところもあるが、たとえば療養所の主人公とミドリとの5分6秒にもわたる長回しのシーンなどに、この監督のこだわりはみてとれるようなところもある。
撮影のリー・ビンビンも、「深い森で迷う、悲しみを悲しみ抜く」というテーマを、よく控えめにフィルムを回している。
糸井重里や細野晴臣や高橋幸広らを何の理由があってカメオ出演させたのはよくわからないが、「強く愛すること、強く生きること」という気恥ずかしくもなりそうなコピーも、それほど気にもならない。
けれどもやはりこの作品を映画として感動していたのかどうかについては、僕自身は微妙なところがある。
1970年代前後の、笑ってしまうようなファッションを見ながら、僕はひたすら自分の主人公たちと同じような年代の頃のさまざまな気分と、そしてこの小説を初めて手に取った34歳の頃の自分をフラッシュバックのように想起していたからだ。
映画を映画として見るということよりは、『ノルウェイの森』という作品を手にして、3ヶ月もかけて少しづつ読み進めたという、自分にとっては特異な個人的体験が思い起こされたのだった。
村上春樹の作品群の中で、『ノルウェイの森』という作品は、それほど感動を与えられたわけではない。
けれど、たまたまこの作品を手にした1987年という年は、僕は愚かかどうかは知らないが、いままでの世界を一度解体せざるを得ない年だった。
それは自分なりの「喪失と再生」に向き合った時だったように記憶している。
僕は、簡単に一晩で読んでしまえそうな、(いい意味で)通俗的なこの作品を、3ヶ月もかけて少しづつ読み進めたのだった。
その時は、僕の中のトオルやキズキや直子や緑が、あるいは永沢先輩やハツミさんやレイコさんが、物語に触発されて動き始めていた頃だった。
僕の中では、恥ずかしくも必要な1年であり、そのときに『ノルウェイの森』という作品があったのだ。
もちろん赤と緑の装丁には、ブックカバーをかけたりして、僕は必要な「精算」の時を、不器用に生きていたのだろう。
だから『ノルウェイの森』という映画作品も、どことなく映画に向き合うと言うよりは、その頃の自分をなつかしく振り返るきっかけのような心持で、付き合ったような気がしてならない。
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たしかに、古典の力というものはそうですね。
でも、音楽も映画も本もそうなんですけど、そのものの価値と言う側面と、もうひとつ同時代性というものがあると思うんです。
今でしか、表現しようもないもの。
そして、読み手や聴き手、観客自体も、その同時代性の中で、表現を受け取ったり、感動したりするということがありますね。
半ばは消費だとしても・・・。
というような理屈をつけて、僕は結構、「現在」とつきあっているわけです。
うんざりもしながらね。
僕が現代文学を敬遠していた理由の遠因になっていたのかもしれませんね。
映画的には独自のムードがあってなかなか良かったですが、原作を読んでいない僕が内容を理解したと言ったら嘘になります。難渋でした。
まあ1000万部のベストセラーですからねぇ。
それぞれの人の、それぞれの気分や距離の中に、その作品はあるんでしょうね。
私は20代で、ベストセラーだから、と普通に手にとって読みまして、それほどの感慨もなく、さらっと読んだ覚えがあります。
改めて、重々しく見せられると、構えてしまいそうですが、さらっと見るのが正解だったような気がします。