日教組委員長や総評議長を務めた槙枝元文(まきえだ・もとふみ)氏が4日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。89歳だった。岡山県総社市出身。葬儀は親族で済ませた。自宅は東京都練馬区石神井台2の5の26。喪主は長男一臣(かずおみ)氏。
戦前から青年学校の教員となり、1949年に日教組本部に入る。71年、日教組委員長に就任。76年からは総評議長も兼務し、いずれも83年まで務めた。86年には日中技能者交流センター理事長に就任した。
74年の春闘で日教組が実施し、約18万人が参加した「4.11全日スト」をめぐっては、地方公務員法違反(争議のあおり)の罪に問われ、最高裁で有罪判決が確定した。
主な著書は、「教育への直言」「文部大臣は何をしたか」など。
高校1年のとき、デモを組織した。
単なる制服反対闘争のようなものであったが。
生徒会をのっとり、制服是非の全校投票を呼びかけるに際して、馴れないガリバン刷りでもしようかと言う時、何人かの教師がうれしそうに寄ってきて、組織化の仕方とか、ビラの刷り方とか教えてくれた。
面倒くさいなあと思ったが、まあ人手も足りなかったので、手伝ってもらった。
あとから日教組の教師たちであったと知る。
その後高校や大学のときは、代々木系に対する反発から、総評系のオッサン連中も混じる集会にも参加したが、いやでしょうがなかった。
そんなことより、日教組かどうかは別として、黙々と組合闘争をやっている教師はいて、人間的には専従の中に好きな人はいた。
槙枝元文さんは、岡山で教師をしていたが召集、陸軍憲兵中尉となって敗戦。教師に戻ったがすぐ組合活動に入り、62年に日教組書記長、71年から83年まで日教組委員長を務め「ミスター日教組」と呼ばれた。
76年から83年には総評議長も兼任し、まさに社会党系のフィクサーの一人だった。
当時は、日教組のストライキもあったから、その主導者でもあった。
北朝鮮の金日成を賛美し、革命思想教育(主体思想)を絶賛したこともあり、またゆとり教育を推進した一人でもある。
いろいろあって総評も連合に移行し、日教組と文部省ー教育委員会との暗闘も、姿を変えて、現在でも教育現場のつなひき現象につながっている。
現場で多くの地域問題を抱えながら、時間と肉体をすり減らしている教師たちの何人かを知っている。
日教組も居れば、反日教組も居れば、そうした組織とは距離を置きながら、孤高の戦いを続けている人たちも居る。
自分の小・中・高を思い浮かべて、記憶に残っている何人かの教師と今なら戦後の日教組の問題を議論できるかもしれない。
槙枝元文さんにはいつも毀誉褒貶がついて回った。彼のことに対しても、同時代をある種の「政治」にも巻き込まれながら、過ごした無名の教師たちに、今一度その評価を聞いてみたい気がする・・・合掌!
戦前から青年学校の教員となり、1949年に日教組本部に入る。71年、日教組委員長に就任。76年からは総評議長も兼務し、いずれも83年まで務めた。86年には日中技能者交流センター理事長に就任した。
74年の春闘で日教組が実施し、約18万人が参加した「4.11全日スト」をめぐっては、地方公務員法違反(争議のあおり)の罪に問われ、最高裁で有罪判決が確定した。
主な著書は、「教育への直言」「文部大臣は何をしたか」など。
高校1年のとき、デモを組織した。
単なる制服反対闘争のようなものであったが。
生徒会をのっとり、制服是非の全校投票を呼びかけるに際して、馴れないガリバン刷りでもしようかと言う時、何人かの教師がうれしそうに寄ってきて、組織化の仕方とか、ビラの刷り方とか教えてくれた。
面倒くさいなあと思ったが、まあ人手も足りなかったので、手伝ってもらった。
あとから日教組の教師たちであったと知る。
その後高校や大学のときは、代々木系に対する反発から、総評系のオッサン連中も混じる集会にも参加したが、いやでしょうがなかった。
そんなことより、日教組かどうかは別として、黙々と組合闘争をやっている教師はいて、人間的には専従の中に好きな人はいた。
槙枝元文さんは、岡山で教師をしていたが召集、陸軍憲兵中尉となって敗戦。教師に戻ったがすぐ組合活動に入り、62年に日教組書記長、71年から83年まで日教組委員長を務め「ミスター日教組」と呼ばれた。
76年から83年には総評議長も兼任し、まさに社会党系のフィクサーの一人だった。
当時は、日教組のストライキもあったから、その主導者でもあった。
北朝鮮の金日成を賛美し、革命思想教育(主体思想)を絶賛したこともあり、またゆとり教育を推進した一人でもある。
いろいろあって総評も連合に移行し、日教組と文部省ー教育委員会との暗闘も、姿を変えて、現在でも教育現場のつなひき現象につながっている。
現場で多くの地域問題を抱えながら、時間と肉体をすり減らしている教師たちの何人かを知っている。
日教組も居れば、反日教組も居れば、そうした組織とは距離を置きながら、孤高の戦いを続けている人たちも居る。
自分の小・中・高を思い浮かべて、記憶に残っている何人かの教師と今なら戦後の日教組の問題を議論できるかもしれない。
槙枝元文さんにはいつも毀誉褒貶がついて回った。彼のことに対しても、同時代をある種の「政治」にも巻き込まれながら、過ごした無名の教師たちに、今一度その評価を聞いてみたい気がする・・・合掌!
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