サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 10508「精神」★★★★★★★★★☆

2010年12月06日 | 座布団シネマ:さ行

前作『選挙』が世界的に高く評価された想田和弘監督が、これまでタブー視されてきた精神病に挑んだドキュメンタリー。岡山市内の精神科診療所に集う人々の精神世界を通して、現代に生きる日本人の精神のありようを探ると同時に、精神科医療を取り巻く課題も浮き彫りにする。前作に続きナレーションや説明テロップを排した独特の映像スタイルで、モザイクなしに素顔で出演してくれる患者のみにカメラを向け、被写体を一人の人間として鮮烈に描き出している。[もっと詳しく]

「観察映画」という手法の中で、こちら側もきっと「観察」されているのだろう。

想田和弘というひとりのドキュメンタリー映像作家の、「観察映画」という手法のどこに、特異性があるのか?
『選挙』(07年)に続く、「観察映画」第二弾の『精神』と題された二時間のフィルムを見ながら、僕はずっとそのことを考えていた。
想田和弘は1970年生まれ、東大文学部の宗教学科を卒業した。
在学中は、東大新聞会の編集長。時代は異なるが、僕もある大学で新聞会の編集長をやっていたが、東大新聞会といえばあのリ
クルート元社長の江副氏が、東大新聞界の営業担当で異才を発揮し、それがリクルートの創業につながっているのは有名な話である。
想田和弘も、あまりに部活にのめりこみすぎて「燃え尽き症候群」となり、その経験が今回の『精神』という主題選択のひとつの動機になっているという。



卒業後、ニューヨークに渡りスクール・オブ・ビジュアルアーツ映像学科に入学、学生時代の短編映画制作からその才能は注目されたようだ。
そうかといって、劇場映画のオファーがすぐに来るわけではない。
バイト感覚で、日本のテレビの制作仕事を手伝いながら、NHKのドキュメンタリー番組制作では40本以上に関わったらしい。
そのあたりの経験、つまりドキュメンタリー作品を制作する立ち位置の呼吸のようなものは、ベテランの域に達していると思われるほど、場数を踏んでいることはすぐにわかる。
通常であれば、ドキュメンタリー畑の優秀な演出家として、業界での顔になっていくか、かつてテレビマンユニオンの人たちがそうであったように、ドキュメンタリー風の企画ドラマの制作受託に回るかが無難な選択肢であろう。
しかし、想田和弘はそういう道に疑問を抱いたと思われる。



たしかに民放の公共の電波の無駄使いと思うしかない体たらくぶりを見ている者たちに取ってみれば、NHKのドキュメンタリー風番組は、かなりの率で見ごたえのある作品に遭遇することになる。
けれども、やはりそこでは「決められたシナリオ」の中で、あるいは「想定するドキュメンタリー」の範囲内で、スペシャルのようなかたちでまとめられた「良質の番組」として消費されるものとして良質であるかどうかの水準の話である。
それ以上でも、それ以下でもない。
想田和弘がもっとも影響を受けたのは、アメリカのドキュメンタリー映像作家として問題作を次々と提出した
フレデリック・ワイズマンである。
ワイズマンの手法としては、何を差し置いても、台本がないことと、自主制作であること、その二点にある。
想田和弘はそこに自分の、たぶんとんでもない困難な土俵を設定したのだ。
台本はない、自分の関心から出発する、被写体との撮るー撮られる関係性がすべてであり、出演者にモザイクをかけるなどはとんでもない話だ。
ナレーションも音楽も必要ない。
要は、テレビ・ドキュメンタリーの手法の否定である。
そして彼はその方法を「観察映画」と名づけることになる。



動機は、彼自身が知りたいと思う社会があるいは人間が、取材を通じて浮き上がると思えばそれでいい。
一作目の『選挙』は、たまたま大学の同級生が川崎市議会の補欠選挙に、自民党公認で出馬するということを知ったことによる。
そしてその作品は、日本の奇妙な「選挙」に対する好奇心もあったのだろうが、世界の映画祭に招待が相次ぎ、ついにはベオグラードドキュメンタリー映画祭でグランプリを受賞した。
そのことよりもっとすごいことは、60分短縮版が世界200カ国でテレビ放映され、米国放送界の最高の栄誉であるピーボディ賞まで受賞したことだ。
過去に、日本にこんな映画人はいない。



そして二作目が『精神』。
もともと05年に観察映画第1弾として発想されたらしい。
この作品でも撮影班パートナーとして参加した舞踏家である妻の柏木規与子の実母が関わっていた関係で、岡山の今回の舞台となった外来型精神クリニックと縁が出来たのである。
自らも「燃え尽き症候群」を患ったことがあった想田和弘は、健常者と精神病者の間にあるカーテンのようなものが気にかかって、しょうがなかった。
けれども、創作映画として精神病棟はいくらも題材にしている映画はあるが、現実のドキュメンタリー作品として、そのカーテンのあちらとこちらにカメラを向けることはなかなか容易なことではない。



では、彼の「観察」とは何か?
それは対象に関心を持つが、予断(あらかじめ決められたシナリオ)は、極力持たないということだ。
ひたすら被写体の人間の撮影同意を待ち、ほとんど演出せずにカメラを回し、収録後は、
ひたすら編集に集中するということだ。
もちろん、ここでは妻の実母の紹介という縁はあった。
そして院長の山本昌和という、たぶん世界的に見ても比類の無い、「精神病」治療に対する見識を持った人間との出会いがある。
山本院長はすぐに想田和弘の「観察映画」という方法論を信頼した。たぶん直感的に理解したのだ。
予断を持たず、信頼関係の中でひたすら相手の言葉や仕草に耳を傾け、その世界をゆっくりとでも理解していこうという「観察映画」の手法は、そのまま山本院長の患者との信頼関係、ひたすら患者が語ってくれることに耳を傾ける姿勢そのものと、共通項が存在したからかもしれない。
山本院長は、クリニックのスタッフやボランティアやなにより患者さん個人の同意が取れれば(つまり当事者の決定によって)、自由に撮影してください、と許可を与えた。



想田和弘と妻はカメラを持って、一人ひとりに撮影取材をお願いに回る。
もちろん、この「奇跡」のような開放病棟であろうが、10人に依頼しても8人から9人は実際には躊躇して断ることになる。
一日誰にも話を聞けなくとも、二人は通いつめたのである。
そして05年の秋と07年の夏に、アメリカから日本に渡った夫婦は、撮影に30日、70時間のフィルム回し、そして編集に10ヶ月をかけて、『精神』という見事なドキュメンタリー作品を完成させたのである。
この作品は、第13回釜山国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞、第5回ドバイ国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞、マイアミ国際映画祭で審査員特別賞、香港国際映画祭で優秀ドキュメンタリー賞、ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭で宗教を超えた審査員賞の栄冠に輝いた。



母親の影響から抜けられず、愛する子どもも連れ去られて、もうなんにもなくなったと泣く鬱の女性がいる。
「足が太い」と苛められて、摂食障害となり、死ぬことばかりを考えたりしたが、美しい短歌を詠む女性がいる。
孤独な子育ての中で、ついに泣き喚く自分の赤ちゃんを殺してしまって、その罪に慄き死に傾く女性がいる。
一日、何をする気力もわかず、寝転がって、鬱をぎりぎりやり過ごす女性がいる。
インターネットのラジオ放送を毎日聞くことで、自分の短い生活の目標をつくろうとする男性がいる。
もう山本院長とは数十年のつきあいであり、この空間の中で神と哲学を思索するキリスト者がいる。
写真に自作の詩を添えながら、何事にも駄洒落を振りまき、「ハーイ、カット」といって笑っておどける、一日16時間の勉学の「燃え尽き症候群」になってしまった男がいる。
頭の中で宇宙人が命令するので、今はなんともないが明日は犯罪をおこしてしまうかもしれないと、不気味なことをいう男がいる。
たぶんお役人であろう行政サービスの人間を相手に、電話で延々と偏執的に議論をしかける男がいる。
寡黙な岡山大学出のドクターで、仲間内からは「ブラックジャック」といわれる男がいる。



スタッフやボランティアや作業所仲間も含みこんでの、奇妙で不思議でしかし懐かしさすら感じるようなかけがえのないコンミューン。
外来の精神クリニックとはいっても、年代ものの民家を改造したものであり、患者は庭のベンチで呼ばれるのを待ち、院長先生に言葉を預け、スタッフや患者同士が待合室や作業所で、煙草の規制もなく、お互いにだべっている。
オフィスの机も年代もので、ガラスも割れたところがなんとか修繕されている。
院長先生は、年金以外には報酬は月10万もとろうとしない。
生活保護指定医の古い看板がかかっている・・・。
WHOの発表によれば、現在世界には1億5400万人の躁鬱症の患者が存在し、2500万人の統合失調症が確認され、症例がからんでいると推定される自殺者が毎年80万人とされる。
この「こらーる岡山」というクリニック+ケアセンター+作業所のような空間は、カーテンの向こう側の世界であるかもしれないが、100%の健常者など幻想以外のなにものでもないこの世界にとって、まことにカーテンのあちらとこちらの境界は定かではない。



「観察映画」とは、観察者の位置がまた観察するものの対象そのものに影響を与えるという不確定性といった現代物理学の法則と同じように、僕たち観客もまた「観察」する(映画を体験する)ことによって、この世界の認識が変容するかのような場面に立ち会っているかのような「錯覚」にとらわれてしまう。
被験者の方々は、薬で呂律が怪しい場合はあるが、おおむねその発される言葉は、とても正確で、本質的で、豊かで、重い言葉で構成されている。
そのことは僕にとっても、とても驚きだった。
撮影終了後であろうが、すでに登場なさった人のうち、3名の方が鬼籍に入られていることが報告される。
画面は静かにただ名前と写真を映し出しているだけだ。
たまに、医院の周辺の木々のざわめきや、年老いた忍び足の猫や、陽だまりのような空間にカメラは向けられる。
なにかを暗喩するようなカットは、ひたすら注意深く、避けられている。
けれども、撮影者である想田和弘のちょっとした息抜きのように、見ている僕たちもほっとして肩の力を抜くことになる。



「自己責任」と「受益者負担」。
小泉政権下でも聞き飽きたお題目が、どうせまた民社党政権のお坊ちゃんたちや官僚によって、「障害者自立支援法案」の名によって施行され、この「こらーる岡山」の現場にまで、補助の減額や打ち切り通告というかたちで、波紋を巻き起こすことだろう。
厚生省の音頭とりの中で、ヒステリーめいた副煙流規制がこの施設にも押し寄せ、煙が流れ出ないような禁煙指導が強制されることだろう。
また感染症対策の徹底の中で、この古ぼけた施設そのものに、改築命令かもしかしたら使用禁止令が出されることになるかもしれない。
カーテンの向こう側から覗かれているのは、いつのまにか「市民社会」良識がア・プリオリに存在するものだと見做しながら、マスコミ的公正に飼いならされているこちら側の、「個性」といいつつ画一化され、「自由」といいつつ自己規制に囲まれ、「良識」といいつつ異端や少数を排除する、「健常者」たちのたぶん本当は覚束ない脆くもある足元であるかもしれない。




 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿