英国アカデミー賞スコットランド最優秀映画賞受賞。抜群のストーリーテリングが冴える、トラブルまみれのスタンダップ・コメディアン“ジョーイ”の人生を描いたミステリアス・スリラーの傑作!次々とアップテンポで繰り出されるエピソード。そのエピソードをネタにしたステージの喋りがオーバーラップして、現在と過去が入れ子になりながら物語は進行する。
吉本芸人のR1グランプリから、もっとも遠く離れた位置にいる、スコットランドのコメディアン。
主人公のジョーイ(スティーブン・マッコール)は、スタンダップ・コメディアンを生業としている。
スタンダップ・コメディアンとは簡単に言えば、ナイトクラブやショーパブなどで、ひとりで語り話芸を披露する喜劇役者のことである。
晶文社から高平哲郎による『スタンダップ・コメディーの勉強/アメリカは笑っている』という優れた評論が出ている。
アメリカでは、そんな笑芸の才能たちの映像記録はたくさん残されている。
「哲学者」とも呼ばれたジョージ・カーリニや、「下ネタもあるチョムスキー」などと自称していたビル・ヒックスや、伝説の黒人芸人であったリチャード・プライヤーや・・・。
そのなかでも、ボブ・フォッシャー監督がダスティン・ホフマンを起用してモノクロ映像で撮った『レニー・ブルース』(74年)の主人公レニーが、僕の中ではもっとも過激なスタンダップ・コメディアンと思える人物である。
レニーの評伝では「毒舌のマシンガン」などと呼ばれているが、その舞台はまるで「チャーリー・パーカーの即興演奏」のようであったと言われている。
権力やマスコミに食ってかかり、差別される黒人や自分の出自のユダヤ人にも痛烈な皮肉をかます。
卑猥な言語の連発で良識人の眉を顰めさせ、もちろん薬物中毒である自分に対する自虐ネタも満載している。
ある意味でカルト芸人と言ってもいいし、即興パフォーマーと言ってもいい。
ボブ・ディランはじめ同時代の多くのアーティストやミュージシャンや役者が、影響を受けている。
アメリカの達者なコメディアンの多くは、またスタンダップ・コメディアンでもある。
現在で言えば、ロビン・ウィリアムズ、エディ・マーフィー、ジェイミー・フォックス、ジム・キャリーなど達者な役者がそうである。
ウディ・アレンなどの諧謔ネタもまた、ひとつのスタンダップ・コメディと呼んでもいいのかもしれない。
日本で言えば「漫談家」という存在が近いのかもしれないが、どうも根本的なところで異なるような気もする。
「漫談家」はもともと無声映画時代の活動弁士たちが、トーキー時代になって職を失い、ひとりしゃべりに転進したものである。
旧くは徳川夢声や牧伸二や西条凡児といった人たちから、ピン芸人などといわれるR1グランプリまでのしゃべくりまでを指している。
上岡竜太郎やタモリや北野誠や綾小路きみまろやデーブ・スペクターなどのある側面が、ちょっと日本版スタンダップ・コメディアンと言ってもいいような気もするが、とてもレニー・ブルースのような狂気や毒舌には程遠い。
もしかしたら北野武や立川談志の舞台でのある瞬間が、どこかとても危険な本質を孕んでいることがあるかもしれない。
芸人の資質と言うよりは、ショーパブやナイトクラブの文化(受容する観客)の問題かもしれない、と思ってみたりもする。
R1グランプリの連中に至っては、そのほとんどが吉本芸人であり、テレビに管理されるタレントであり、許容された範囲の中での無毒な「笑い」を提供するだけの存在でしかありえない。
『笑いながら泣きやがれ』のスコットランドのスタンダップ・コメディアンであるジョーイの自虐と下ネタが、どのレベルにあるものなのかはよくわからない。
ジャンキーであり、借金に追われ、泥酔状態を繰り返し、妻は娘のエイミーを連れて、家を出てしまった。
常連のクラブではそこそこの人気があるようだが、スコットランドの田舎町を超えた人気ではないようだ。
そんなジョーイに士官学校時代の同級生であったらしいフランクという男が近づいてくるが、ジョーイにはあまり記憶がない。
アパートの家主から傷害事件をでっちあげられて部屋を追い出されたジョーイを、フランクは救ってくれるが、士官学校の同窓会に誘われることになる。
気が乗らないジョーイであったが、仕方なく同行した先は、老人介護施設であった・・・。
このあたりから25年前の12歳であった、ジョーイとフランクが教官から受けたレイプ事件があぶりだされることになる。
この作品は、インディペンダントな作品だが、09年の英国アカデミー賞のスコットランド最優秀賞を受けている。
日本では劇場未公開作品であるが、ジョージ・ベルーシ監督の手腕はなかなかのものだと思った。
ジョーイは学校に火をつけて少年院に送られ、そこで生き延びるために「笑い」を武器にするようになったのだが、少年時代の記憶を封印していることが、荒れた生活の遠因ともなっている。
フランクの導きで「パンドラの箱」をあけたジョーイが、傷だらけの体で舞台に立ち、自分に起こった物語を語り始める。
観客はいつもの自虐ネタと下ネタの背景にある物語につきあいながら、いつにもまして温かい拍手を送るようになる。
ジョーイは基本的に善人であり、小心者であり、娘エイミーを無条件に可愛がるいいパパである。
けれども、ジョーイの人生に降りかかったトラウマが、無意識下に沈潜し、破滅型の不器用な人生を招き入れている。
40歳近くになり、結果的に自分の過去に向き合うことになり、これからのジョーイがスタンダップ・コメディアンの芸に磨きをかけることになるのか、あるいはもう<防衛>としての笑いを捨て去るようになるのか、それはわからない。
けれどもここには「消費」されるだけの吉本芸人からもっとも遠い位置で、「自分」を曝け出しながら、「笑いながら泣いている」ひとりの人生が存在しているのだ。
吉本芸人のR1グランプリから、もっとも遠く離れた位置にいる、スコットランドのコメディアン。
主人公のジョーイ(スティーブン・マッコール)は、スタンダップ・コメディアンを生業としている。
スタンダップ・コメディアンとは簡単に言えば、ナイトクラブやショーパブなどで、ひとりで語り話芸を披露する喜劇役者のことである。
晶文社から高平哲郎による『スタンダップ・コメディーの勉強/アメリカは笑っている』という優れた評論が出ている。
アメリカでは、そんな笑芸の才能たちの映像記録はたくさん残されている。
「哲学者」とも呼ばれたジョージ・カーリニや、「下ネタもあるチョムスキー」などと自称していたビル・ヒックスや、伝説の黒人芸人であったリチャード・プライヤーや・・・。
そのなかでも、ボブ・フォッシャー監督がダスティン・ホフマンを起用してモノクロ映像で撮った『レニー・ブルース』(74年)の主人公レニーが、僕の中ではもっとも過激なスタンダップ・コメディアンと思える人物である。
レニーの評伝では「毒舌のマシンガン」などと呼ばれているが、その舞台はまるで「チャーリー・パーカーの即興演奏」のようであったと言われている。
権力やマスコミに食ってかかり、差別される黒人や自分の出自のユダヤ人にも痛烈な皮肉をかます。
卑猥な言語の連発で良識人の眉を顰めさせ、もちろん薬物中毒である自分に対する自虐ネタも満載している。
ある意味でカルト芸人と言ってもいいし、即興パフォーマーと言ってもいい。
ボブ・ディランはじめ同時代の多くのアーティストやミュージシャンや役者が、影響を受けている。
アメリカの達者なコメディアンの多くは、またスタンダップ・コメディアンでもある。
現在で言えば、ロビン・ウィリアムズ、エディ・マーフィー、ジェイミー・フォックス、ジム・キャリーなど達者な役者がそうである。
ウディ・アレンなどの諧謔ネタもまた、ひとつのスタンダップ・コメディと呼んでもいいのかもしれない。
日本で言えば「漫談家」という存在が近いのかもしれないが、どうも根本的なところで異なるような気もする。
「漫談家」はもともと無声映画時代の活動弁士たちが、トーキー時代になって職を失い、ひとりしゃべりに転進したものである。
旧くは徳川夢声や牧伸二や西条凡児といった人たちから、ピン芸人などといわれるR1グランプリまでのしゃべくりまでを指している。
上岡竜太郎やタモリや北野誠や綾小路きみまろやデーブ・スペクターなどのある側面が、ちょっと日本版スタンダップ・コメディアンと言ってもいいような気もするが、とてもレニー・ブルースのような狂気や毒舌には程遠い。
もしかしたら北野武や立川談志の舞台でのある瞬間が、どこかとても危険な本質を孕んでいることがあるかもしれない。
芸人の資質と言うよりは、ショーパブやナイトクラブの文化(受容する観客)の問題かもしれない、と思ってみたりもする。
R1グランプリの連中に至っては、そのほとんどが吉本芸人であり、テレビに管理されるタレントであり、許容された範囲の中での無毒な「笑い」を提供するだけの存在でしかありえない。
『笑いながら泣きやがれ』のスコットランドのスタンダップ・コメディアンであるジョーイの自虐と下ネタが、どのレベルにあるものなのかはよくわからない。
ジャンキーであり、借金に追われ、泥酔状態を繰り返し、妻は娘のエイミーを連れて、家を出てしまった。
常連のクラブではそこそこの人気があるようだが、スコットランドの田舎町を超えた人気ではないようだ。
そんなジョーイに士官学校時代の同級生であったらしいフランクという男が近づいてくるが、ジョーイにはあまり記憶がない。
アパートの家主から傷害事件をでっちあげられて部屋を追い出されたジョーイを、フランクは救ってくれるが、士官学校の同窓会に誘われることになる。
気が乗らないジョーイであったが、仕方なく同行した先は、老人介護施設であった・・・。
このあたりから25年前の12歳であった、ジョーイとフランクが教官から受けたレイプ事件があぶりだされることになる。
この作品は、インディペンダントな作品だが、09年の英国アカデミー賞のスコットランド最優秀賞を受けている。
日本では劇場未公開作品であるが、ジョージ・ベルーシ監督の手腕はなかなかのものだと思った。
ジョーイは学校に火をつけて少年院に送られ、そこで生き延びるために「笑い」を武器にするようになったのだが、少年時代の記憶を封印していることが、荒れた生活の遠因ともなっている。
フランクの導きで「パンドラの箱」をあけたジョーイが、傷だらけの体で舞台に立ち、自分に起こった物語を語り始める。
観客はいつもの自虐ネタと下ネタの背景にある物語につきあいながら、いつにもまして温かい拍手を送るようになる。
ジョーイは基本的に善人であり、小心者であり、娘エイミーを無条件に可愛がるいいパパである。
けれども、ジョーイの人生に降りかかったトラウマが、無意識下に沈潜し、破滅型の不器用な人生を招き入れている。
40歳近くになり、結果的に自分の過去に向き合うことになり、これからのジョーイがスタンダップ・コメディアンの芸に磨きをかけることになるのか、あるいはもう<防衛>としての笑いを捨て去るようになるのか、それはわからない。
けれどもここには「消費」されるだけの吉本芸人からもっとも遠い位置で、「自分」を曝け出しながら、「笑いながら泣いている」ひとりの人生が存在しているのだ。
インディーズな映画なんですけどね、なんか主人公の不器用さのようなものの遠因を考えてみたりするとちょっとホロっとさせられました。
レビュー、興味深く読ませて頂きました。
私もこの映画はとても面白く見たんですが、面白さを文字にしようとすると難しいな、と思ったんですが、読ませて頂きしっくりきました。