サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 08299「中国の植物学者の娘たち」★★★★★★★★☆☆

2008年05月26日 | 座布団シネマ:た行

『小さな中国のお針子』のダイ・シージエ監督が、中国ではタブーとされる同性愛に挑んだ禁断の愛の物語。互いに孤独な境遇で生きてきた2人の娘が、心を寄せ合い愛を育んでゆく姿を幻想的な映像で紡ぐ。主演は、フランスと中国の血を引くミレーヌ・ジャンパノイと、『かちこみ! ドラゴン・タイガー・ゲート』のリー・シャオラン。緑が生い茂る植物園の情景やロケ地の美しい景色、そして中国に古くから伝わる風習が、エキゾチックな魅力を醸し出す。[もっと詳しく]

権力も歴史も回収できないもの。その魂を、ふたりの女性に仮託したダイ・シージエ監督。

ダイ・シージエ監督は、十代後半の数年間を、山間部に下放されている。
そのときの体験を、映画化したのが「中国の小さなお針子」(02年)である。
「文化大革命」の大号令は、毛沢東が1966年に発したものだ。スローガンは「大躍進」。
鉄鋼生産を飛躍化させ、農民は人民公社に移行し、食料大増産を目論んだ。
しかし、製鉄の技術はなく、一方で天災なども相俟って、食糧増産にも限りがあり、2000万人以上の餓死者を生み出した。



一方で、政治権力の奪取のために、中学生たちを中心にした紅衛兵が組織され、旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破(四旧打破)、造反有理を唱えて、旧体制と目されるものを、打ち壊しにかかった。そこで、目の敵にされたのが、知識層であった。
ただ、あまりに膨れ上がった紅衛兵のなかで権力闘争がおこり、過激武装が常態化するなかで、制御できないと見た毛沢東は、今度は一転して、各地に人民解放軍による革命委員会を設けて、「農民に学べ!」と学生たちを僻地山村に容赦なく下放(追放)することになったのである。



ダイ・シージエ監督の下放以前の活動は知らない。
けれど「小さな中国のお針子」で下放されたふたりの青年の父親は医者であったこと、彼らが村に密かに持ち込んだものにヴァイオリンや禁断の西洋文学書があったこと、などから想像をしてみたくもなる。
たぶん、かなり裕福であり開放的でもあった両親に、育てられたのだろう。そして、両親は当然のように糾弾の対象となり、子息である自分もまた、歴史に翻弄されたのだろう。



ダイ・シージエ監督は、1984年に政府給費留学生として、IDEHC(パリ映画高等学院)に入学している。文化大革命も終焉を遂げ、一部の知識層は名誉回復がなされ、青年たちの一部も海外に留学する機会を得られるようになったのであろう。
しかし、ここからダイ・シージエ監督は、他の多くの政府給費留学生とは異なる道を歩むことになる。
パリに留まり、フランス語で原作を書きながら、映画作りを試行したのである。
そういうなかで、2000年「バルザックと中国の小さなお針子」は、ガリマール社から4000部が発刊され、それがフランスで瞬く間に40万部のベストセラーとなり、多くの国で賞を受け、30ヶ国で翻訳されたのだ。
撮影許可に苦心を重ねたものの、ついに03年には自らがメガホンを取って「小さな中国のお針子」はフランス映画として製作されたのである。



「中国の植物学者の娘たち」も同じように、フランス語で原作が書かれ、もちろん中国映画ではなくフランス・カナダ合作映画として製作されている。
20年以上のフランス滞在を選択してきたダイ・シージエ監督は、ちょうど76年と89年のふたつの民主化闘争であった「天安門事件」の間に渡仏したことになる。
文化大革命以降の中国のなにを描くべきなのか?
自分は中国人の血を受け継いでいるが、西洋の哲学や思想や美に触れて、フランス語で小説を書く、つまりはヨーロッパとの混血児のようなものだ。
哲学や思想では、世界精神に触れているかもしれない。
デラシネの高等遊民のように、パリを満喫したかもしれない。
自分自身がいってみれば、バルザックやモーツァルトのようなブルジョア(貴族)文化に潜む美によって世界に目を開かれた「中国の小さなお針子」そのものかもしれない。
私の還る場所は、どこにあるのか?



「中国の植物学者の娘たち」では、ひたすら濃密なアジアの緑に分け入り、そこで中国ではいまだ禁忌であるレズビアンを題材とすることになった。
時代は第2次天安門事件の1990年前であろうか。
唐山大地震(76年)で両親を亡くし3歳で孤児院に引き取られたリー・ミン(ミレーヌ・ジャンバノワ)は、実習生として崑林医科大学のチェン教授(リン・トンフー)の池の中に位置する植物園に向かう。
厳格なチェン教授の世話をするのは母親を10歳で亡くした娘のチェン・アン(リー・シャオラン)。
ミンとアンはすぐに互いに惹かれるものを感じる。
軍人であるアンの兄タンがチベット赴任から帰省したとき、チェン教授はリーとタンを結婚させようと目論む。
すでにアンを深く愛していたミンは嫌がるが、アンは「偽装結婚」をすれば、「私たちは永遠に一緒にいることができる」とミンを説得する。
そして、華やかな結婚式の日を迎えるのだが・・・。



今回はテーマ性もあるだろうが、中国当局から中国国内の撮影許可は下りず、中国と国境を接するベトナム北部で、山水画にあるような奥深い山々を背景にいただき、霧の濃い湿原をもつ緑の匂いに溢れかえるような幻想的な桃源郷のようなロケーションを探し当てた。
池の中の植物園は、寺院の施設を借りきり、植物はすべてスタッフがあらたに植栽したという。
舟上でみる花が空に散開し、川面を流れる華麗な少数民族の結婚式に出かけるシーンも、実際の現地民族に演じてもらった。
ここで、ダイ・シージエ監督は、中国の固有の場所や地名にはこだわってはいない。
ただひたすら、噎せ返るような植物園の濃密な空気があればそれでよかった。
そして、ミンとアンの無邪気な逢瀬を演出する自然の悠大さがあればそれでよかった。
あるいは、美しい肢体をもつ二人が戯れる、妖しくも蒸気に芳満した密室があればそれでよかった。
すべては、アジア的な官能の世界を、秘密めいた禁忌の世界を、孤独に育ったふたりの美しい娘たちの慄く快楽の世界を、フィルムに定着させるための舞台に過ぎない。



ビアンの世界で言うならば、アンはネコであり、ミンはタチのように見えなくもない。
けれどそれも異なるかもしれない。
両方がフェムのような仕種をするときもあれば、リバのように互いが互いを愛撫することが充実のようにもみえる。
けれども、ひとつはっきりしていることは、二人は出会ってまもなく、お互いの対幻想が永遠に生涯続くことを、どちらからともなく望みあったということである。
ふたりはともに処女であった。そして、ミンはタンとの偽装結婚の前に、互いに処女を捧げあうことを嘆願している。



二人は寺の先生に願う。
永遠に一緒にいるにはどうしたらいいのでしょう。
先生は「108羽の鳩を、決められた方角に放ちなさい」といい、二人は幸せそうにその教えに従う。
心を寄せ付けないミンに怒って折檻をし、兵役に戻るタン。
植物園では、絶対権力の位置から、ふたりの親和性によりいつしか疎外されていくチェン教授。
不審に思ったチェン教授に、ついには温室での二人の密会を発見されることになる。
ミンを悪魔呼ばわりした父をアンは棒で殴り逃げ出す。
心臓病の父は病院に運ばれ、絶命前に二人の関係を詳らかにする。
そして、二人は死刑を宣告される。
ミンは孤児院の院長に手紙を書く。
二人を誰も裁くことはできない。二人の灰を一緒にして、湖に撒いて欲しい、と。
寺の先生と院長先生は、かつて二人が108羽の鳩を放した場所で、二人の灰を撒く・・・。



ダイ・シージエ監督は、中国の3面記事に載った実話から、この物語を紡ぎあげた。
この作品は、いまだ中国での上映を禁じられている。
仲の良い姉妹のようにも見える二人の女性を通じて、20年以上を異国に滞在し、異国語で小説にし、異国の製作映画とすることで、ダイ・シージエ監督は、何を伝えようとしているのだろうか?
チェン教授の厳格に管理する世界の秩序は、二人の対幻想の前に、崩壊に晒される。
なんと、脆いことか。
たしかに、二人はもっと大きな秩序の側から、極刑を宣告される。
けれど、それもまた、不可能性の愛の引き立て役に、秩序は位置しただけなのかもしれない。



108羽の鳩は籠を開けられ、次から次へと、大空に飛び立った。
秩序はそれを回収できない。
遺灰は混ぜ合わされ、撒かれ、水面に普遍された。
秩序はそれを回収できない。
権力も歴史も回収できないもの。それは、また、私自身の魂でもあるのだ。
ダイ・シージエ監督は、切り裂かれたデラシネの場所に在って、そのことを、自分の深部に対して、届かせようとしているのかもしれない。










 



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14 コメント

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秩序・・・ (BC)
2008-05-27 22:30:06
kimionさん、こんばんは☆
トラックバックありがとうです。(*^-^*

>不可能性の愛の引き立て役に、秩序は位置しただけなのかもしれない。

秩序(既成概念)は脆く儚いモノなのかもしれないですね・・・。
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BCさん (kimion20002000)
2008-05-27 23:26:23
TBありがとう。
迫害や忌避があるからこそ、閉じこもり純化する愛の形もあるのかもしれません。
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映像が (メル)
2008-05-27 23:37:03
とても綺麗で、2人の主演女優さんたちが
アジアンビューティと言う感じで素敵でした。
鳩の飛び立つシーンと遺灰を混ぜ合わせて撒くシーンも印象に残りました。
同監督の「小さな中国のお針子」の方が私は好きでしたが、この監督さんの感性は素晴らしいな、と思いました。
TB&コメント、どうもありがとうございました♪
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メルさん (kimion20002000)
2008-05-28 02:58:05
こんにちは。
まさに、アジアンビューティですね。
異国に滞在していることが、かえってこういう像を創りだすのでしょうね。
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美しい映像 (mio)
2008-05-28 09:31:03
kimonさん、TB&コメントありがとうございます。
勝手にTBだけしてたので、遅ればせながらコメントを。
濃密な空気と美しい風景に心が吸寄せられるような想いでこの作品を鑑賞しました。
もう一度、ゆったりとした気持ちで観てみたい作品です。
ダイ・シージェ監督の次回作も期待しちゃいますね☆

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mioさん (kimion20002000)
2008-05-28 09:35:05
こんにちは。
ダイ・シージェはまず原作を小説のかたちで発表するわけで、ほとんど映画化を想定しながら、執筆しているんでしょうね。
翻訳本をまだ読んでいないので、一度手にとって見たいなあ、と思っています。
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こんにちは (ゴブリン)
2008-06-08 12:34:16
kimion20002000さん コメントありがとうございます。
僕も観終わった直後はなかなかいいと思ったのです。ただどうもどこか人工的なものを感じてしまいました。鳩を飛ばすシーンは印象的なのですが、その前提となるヒロイン二人の葛藤が充分描かれていないと感じたのです。幻想的で美しい自然、桃源郷のような植物園が素晴らしかっただけにその点が残念です。
せっかく植物園を舞台にしたのですから、植物の持つ生命力(大地に根を張ることの意味)、傷を癒す力、しかし世話を怠れば枯れてしまうもろさなどともっと関連付けてみる手もあったのではないでしょうか。父親とはまた違った観点から娘たちは植物と接するというように。そんなことを思ったりしています。
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ゴブリンさん (kimion20002000)
2008-06-08 12:52:29
こんにちは。
そうですね、ゴブリンさんがおっしゃるように、植物や薬草や・・・、中国で言う「本草学」のようなものでしょうけど、奥が深いし、隠喩的ですし、そのあたりをもう少し、象徴的に出すやり方がありそうな気がしますね。
もしかしたら、原作には、書き込んであるのかもしれませんが。
この映画の官能は、やはり、「薬草」を蒸す際の、息苦しいまでに芳満する蒸気の世界にありそうですからね。阿片も、使われていましたから。
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高得点ですね^^ (latifa)
2008-09-28 17:06:46
kimionさん、こんにちは。
今日やっとこの映画を見ることができました。
凄く期待し過ぎたせいと、主役の女優さん(ロシアのハーフの方)が自分の好みではなかったこともあって、それほど私はガツンと来なかったのですが、風景とか映像は、とても美しく、そういう点ではこの映画を堪能することが出来ました。
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latifaさん (kimion20002000)
2008-09-28 18:19:58
こんにちは。
僕は、高得点でしたね(笑)

この監督の複雑なデラシネさのようなものが、とてもよく伝わってきました。
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