サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 09406「ゼラチンシルバーLOVE」★★☆☆☆☆☆☆☆☆

2009年10月15日 | 座布団シネマ:さ行

広告、ファッション、雑誌などを中心に第一線で活躍する写真家、操上和美が、永瀬正敏と宮沢りえを迎えて初メガホンを取ったアーティスティックなサスペンス。アフリカの砂漠に生息する虫、オニマクリスプラナにインスピレーションを受け、ミステリアスな女をビデオ盗撮する男が、次第に彼女に惹(ひ)かれていく姿を描く。主題歌を井上陽水、振り付けをバレエダンサーの首藤康之が担当するなど、各界のアーティストが参加。せりふは極力削られ、洗練された極上のビジュアルを堪能できる。[もっと詳しく]

操上和美の分身や美意識につきあうための90分の苦痛。

操上和美、1936年生まれだから、御年73歳か。
広告写真の日本での第一人者のひとりである。著名人を撮った作品も多い。
ポートレートというよりは、アート写真の設定の中に、有名人を組み込んだという感じが強い。
作品展には何度か行ったことがある。
前衛ではないが、時代意識の先端を取り入れることで成立する商業写真の先端を、よくぞ走ってこられたな、という印象を持っている。
インタヴューによれば、かれこれ20年以上前から映画に挑戦してみたいと思っていたそうだ。
この作品が、ひとつのタイミングであったのだろう。



70年代に操上和美がニューメキシコの砂漠に行ったとき。
そこでオニマクリスプラナという「虫の生態」に触発されるものがあり、そのモチーフを男と女のドラマに置き換えてみたかった、と操上和美は語る。

灼熱の太陽、広大な砂漠。
その虫は砂の下で夜が来るのをじっと待つ。
夜が来ると虫は砂漠に出て逆立ちをする。
一晩中逆立ちをして、苦しみに耐え、ようやく夜露を味わった虫は、恍惚として我を忘れる。
そして太陽が昇るとき、その虫は太陽の光に焼かれ、一瞬のうちにぼっと蒸発してしまう。
跡形もなく、自分が世界から消えたことも知らず、あっという間に。




無機質な部屋で、望遠レンズをつけたビデオカメラを窓際に設置して、男(永瀬正敏)はアラーム時計を何台もセットして、規則正しく決められた時間に、録画をする。
運河を隔てた向こう側には、前面ガラス張りの建物があり、女(宮沢りえ)がいる。
本を床に無造作に置き、机はひとつで本を読んだり、ぼんやり外を眺めたり、舞踊のような奇妙な体操をしたり。そして、キッチンでスレンレス鍋に500CCの湯を沸かし、きっちりと12分30秒茹でられた卵の殻を剥き、ゆっくりと味わって食べる。
ファッショナブルな服装に着替え、サングラスをかけたり、ブロンドのかつらをつけたりして、女はその部屋を出る。
24時間の女の監視盗撮を依頼した男(役所広司)に録画テープを渡すが、男はその理由を明かしてくれない。



「たかが運命、されど男と女、あまりに純粋でエロティック、愛は撮られるほどに奪われる」といった、仰々しく赤面しそうな宣伝コピーがつけられている。
結局のところ、女は謎の殺し屋であり、依頼主もなぜか殺され、盗撮するなかで次第に女に惹きつけられていくカメラマンも最後には殺される。
オニマクリスプラナの魅惑的な生態が、こういう物語にねぇ、と苦笑するしかない。
セリフはほとんどない。
美術も照明も井上陽水による音楽も、仕事仲間のベテランを起用して、凝りに凝った映像を90分にわたって展開している。
しかし、こんな映像を、長時間にわたって、一体誰が観たいんだ?
MTVのようなプロモーション映像であれば許せるところもあるし、仲間内のプライベートフィルムであれば、お好きにどうぞ!というところだ。



写真は時間を瞬間に切り取るものだ。そこに、被写体の暗喩を一瞬で察知し、レンズを通して緊張に満ちた一発勝負を仕掛け、ゼラチンシルバー(銀塩)に定着する。
これがカメラマンの仕事であり、操上和美の真骨頂だ。
けれど、映像作品は、時間の経過を役者の演技をまじえながら観察し物語を構成する作業である。
もちろん、操上和美だってそんなことはわかっている。
わかっているが、まったく映像による物語ということが、わかっているとは思えない。
たとえば、操上和美の写真展で、僕たちは印象深い写真の前に何十分もたたずんで、その1枚の写真あるいは連作から想起する物語に自由にひたることができる。
けれど、90分の映像作品では、そのなかにどれだけ印象深い構図が存在しようが、衝撃的な映像美があらわれようが、時間を構成するシナリオ(作劇)がない限り、作品としての感動は与えられない。



半熟の卵をいとおしそうに食べる宮沢りえ。ソフトクリームをほおばる宮沢りえ。そのアップの口元は、限りなくエロティックで美しい。
その録画映像を、大画面のモニターに写しながら、男はその画面に夢中でライカを向ける。そして、現像室で、愛の深さを確かめるように、ゼラチンシルバーにその像を定着させ、部屋いっぱいに女のプリントを飾りつける。
この「腐食」するものに惹きつけられるカメラマンは、操上和美の分身だ。
溢れるばかりに、彼の美意識を散りばめている。
ヴァイオリンを弾くSAYAKAの他に誰も客もいず、美しいママ(天海祐希)に見つめられてひとりでカウンターでグラスを傾ける(こんな店があったら教えてほしい!)カメラマンは、操上和美の美意識だ。
けれど、僕たちは、そんなものが観たいわけではない。



構図のひとつひとつは、美しく計算されている。
しかし、役者はと言えば、その構図の中で、指示されて演技し、移動するだけだ。
「たたずんでいるだけで、自身のセクシュアリティが放出されることが役者さんの真骨頂だ」と操上和美はコメントしている。
多くの役者を被写体にしてきた、彼らしい言葉である。
しかし、映画的時間が役者に求めるものは少し異なっている。そこでは、ドラマ(シナリオ)があり、その人物になりきる役者の格闘があり、存在感がある。もちろん、演技の必然も。
カメラは風景(構図)を切り取るだけでなく、ドラマの意図を補完しなければならない。
写真は一瞬のインスピレーションが命だ。そこに、暗喩をどうこめるかだ。
けれど、映画は、全体の構成が不可欠だ。
そこではどんなに美しかろうが、ミステリアスであろうが、もしかしたらなにかの隠喩であろうが、こんな殺し屋が登場する必然性もなければ、美しすぎるバーのママをアップで繰り返し撮る必然性もまるでない。




 


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