サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 08275「大日本人」★★★☆☆☆☆☆☆☆

2008年02月17日 | 座布団シネマ:た行

ダウンタウンの松本人志が、企画・初監督・主演を務めて撮り上げた長編映画。映画配給会社の松竹とタッグを組み、映画製作に乗り出した吉本興業の第1作目でもある本作は、松本自身の考える“ヒーロー像”を描いた異色作。脚本は松本の盟友で人気放送作家の高須光聖との共同執筆。出演は竹内力、UA、神木隆之介、後輩芸人でもある板尾創路。あくまでテレビの延長線上と位置づけ、面白さを追求するコンセプトで撮られた松本ワールドに注目。[もっと詳しく]

コメディの解体を目指し、残念なことに見事に空中分解した作品だが・・・。

「大日本人」は、カンヌ映画祭の監督週間部門の正式招待作品となった。
ヴェネツィア国際映画祭でも話題を呼んだビートたけしの「監督・ばんざい!」とあわせての招待で、日本の「大物」コメディアンふたりの監督作品ということで、松本人志の「思惑」をも超えたところで、話題を呼んだ。
事前に作品内容をほとんどリリースしなかったことも、注目を浴びたひとつの要因であった。



発表後は、この作品に対して、さまざまな評価が渦巻いている。
多くの雑誌で特集も組まれた。テレビで監督松本人志として、コメントも求められた。
「映画芸術」誌では、2007年のワースト映画1に選ばれた。あの絶対本命の「蒼き狼」を押さえての一位だから、これはこれでインパクトはある。
また、報知新聞のラジー賞を真似た「蛇いちご賞」では、ワースト監督賞を受賞した。
こんなことは、芸人人志としては、洒落で受け取ればいいことだし、監督人志としては、先輩である北野武が言っていることだが「映画は撮り続けることだよ、5本は撮らないとわかってこないし、評価できない」といったようなコメントで、擁護されるかもしれない。



「大日本人」は、テレビの延長線上での「仲間内芸」としてみれば、映画に対する冒涜のような作品である、と大上段に振りかぶって、非難もできるかもしれない。
もともと、国際映画祭に対して、日本人論のパロディであるようなこの作品を、あえて日本に対する「既成イメージ」を打破するために提出したとすれば、それはそれで戦略的な作品であるということも出来る。
けれど、本当のところ、松本人志は構想5年とも言っているが、この作品の製作に何を意図したのかだけが、僕にとっては興味の対象であった。

松本人志扮する大佐藤大(だいさとう・まさる)へのドキュメンタリー風の密着インタヴューレポートの形式で、物語は始まる。
この作品についての前知識がない観客(僕もそうだが)は、「大日本人」といわれているであろう、この大佐藤という人物の謎を、インタヴューの進展にしたがって、解き明かしていくようになる。
どうやら、大佐藤というこの冴えない男は、なにか国の防衛にかかわる出動要請がくるのを、待機していることが分かる。
しかし、その生活は侘しいものであり、妻にも逃げられているようだ。
インタヴュアーは不躾で、ずけずけと生活に入り込んでくるが、大佐藤はぼやきながらも、拒絶することが出来ない。
なんということもないローカルな駅前商店街をぶらつき、食堂に入り、公園にたむろする。
収入は一定あるようだが、どこから支払われているのかはわからない。
周囲の人たちからも、尊敬ではなく、どこかで迷惑な存在、チャカされる存在として見られているようだ。
中盤にさしかかり、防衛庁のようなところから出動命令があって、大佐藤は待ってましたとばかり某所に駆けつけ、儀式めいた御祓いのあと巨大な電気エネルギーのようなものを注入され巨人化し、「獣」とよばれるものたちと対決することになる。



ここまでの入り方は、なかなか興味深いものがある。
松本人志は「ヒーローの表と裏」を描きたかったと語っているが、「大佐藤=大日本人」と「獣」との対決は、「古事記」の伝承になぞらえてもいいが、神話時代の神々が、まつろわぬ者たちを、征伐し平定していく様を、隠喩しているとみなすことも出来る。
ここでは、滅ぼされたものたちを鎮魂する日本の歴史過程を想起してもいいし、桃太郎伝説などが象徴している列島の「鬼」の存在を引き寄せてもいい。
大佐藤は6代目に当たるのだが、「大日本人」は先祖の代では、民衆に畏怖されたり喝采を得たりしていたようである。
「相撲取り」がある種の異人的な神性をもった恭しい存在であったように、あるいは「山人」が平地の民から見れば、畏れの対象であるかのような「遠野物語」の民話の共同幻想のように・・・。
もうそのような畏怖の対象は、いまでは各地の祭りに記号のようにしてしか存在しない。
天皇が人間宣言したように、神々は地上に降りて、権威は消滅し、マスコミや大衆の笑いと蔑みの対象ともなっている。
「大佐藤=大日本人」は、いわば「大」という概念が、滑稽を象徴するようになっていることの、パロディのようにも機能している。



そして、「獣」との戦いとして、「跳ルノ獣」(竹内力)、「締ルノ獣」(海原はるか)、「童ノ獣」(神木隆之介)、「匂ウノ獣」(板尾創路)などが登場して、円谷プロを彷彿とさせる怪獣シリーズやウルトラマンシリーズのパロディのようなシーンが続く。
笑うに笑えない、哀愁漂う「大佐藤VS獣」との戦いは、もはやテレビ的視聴率も取れなくなっている。
出陣前の儀式にしても、緊張感のないかたちだけのようなものに堕していく。
そんなとき、たぶん外国から来たであろう「赤い獣」が登場し、圧倒的な強さで「大佐藤」を痛めつけていく・・・。

前半のドキュメンタリータッチから、この「獣」との対決シーンは明らかに転調している。
CGとVFXまっさかりの欧米映画に、日本の伝統的な特撮技法を見せ付けたかったのか?
あるいは「ひょうきん族」以来の、日本のコメディの様式ともなっている「かぶりもの芸」を披露したかったのか?
妻との関係や、女の子しかいない跡取り問題や、先代(父親)の介護問題や・・・そうした冴えないけれど普遍的な日常問題を抱える大佐藤と、彼の変身後との対比を際立たせたかったのか?



本当は、松本人志は、もう、コメディなんて、コメディの解体以外に成立しないんだ、といいたいのではないかと思ってみたくなる。
喜劇王チャップリンは、喜劇という形式を借りて、たぶんそれまでのあらゆるコメディの枠組みを超えて、普遍芸術の感動にまで昇華している。
その亜流を望んでもしょうがないし、イギリス風の風刺コメディや、ハリウッドのお馬鹿コメディや、ウディアレン風の自意識(自虐)コメディや、もちろん邦画における毒の薄いコント風のコメディを、松本人志が真似てもしょうがない。
そうした時に、北野武の場合は映画の表現世界ではある種「お笑い」を封印したのとは異なり、松本人志はとりあえず、パロディをパロディ化し、そこにまたひとりでボケとツッコミをいれるかのような解体手法を、取り入れようとしたのではないだろうか。



こうした松本人志の試みは、この作品では、ほとんど成功しているとは思えない。
エンドロールに流されるくだらない「楽屋落ち」も、その「照れ隠し」のようなものではないか、と思えてくるほどだ。
けれども、たとえ、ワースト1と評価されようが、僕の評価が★みっつであったとしても、それはこの作品に関してだけのものである。
いまのところ、日本で「コメディの解体」ともいうべき領域に、まともに取り組んでいる映画作家は松本人志以外には、見当たらない。
とすれば、松本人志は、風当たりがどんなに強かろうが、めげずにもう少しは映画という表現手段にチャレンジしていくべきだと、僕は思う。


 

 



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