サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

護憲/三木睦子(故三木元首相夫人)/95歳

2012年08月03日 | 毎日がメメント・モリ

三木睦子さん死去=護憲活動に尽力―故三木元首相夫人

時事通信 8月3日(金)15時55分配信

 故三木武夫元首相夫人で、護憲活動に尽力した三木睦子(みき・むつこ)さんが7月31日午後0時34分、大腸腫瘍のため都内の病院で死去した。95歳だった。千葉県勝浦市出身。自宅は東京都渋谷区南平台町18の20。葬儀は近親者で済ませた。お別れの献花式は7日午後3時から、港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は長男啓史(ひろふみ)氏。
 三木さんは昭和電工の創業者である森矗昶(のぶてる)氏の次女として生まれ、1940年に三木元首相と結婚。以降、元首相が88年に亡くなるまで、「クリーン三木」と称された夫の政治活動を陰で支えた。同年には、国連婦人会会長や全国発明婦人協会会長を務めた功績から藍綬褒章を受けている。
 元首相の死後は、積極的に表に出て言論活動に従事し、「リベラル」派の象徴的存在として活躍。作家の大江健三郎氏や評論家の故加藤周一氏らとともに、憲法9条堅持を目指す「九条の会」の呼び掛け人になるなど、護憲活動、平和運動に携わった。また、北朝鮮との国交正常化にも取り組み、再三にわたり訪朝。94年には金日成主席(当時)と面会した。2000年に発足した「日朝国交促進国民協会」の副会長も務めた。 

もともと自民党というのは、愛国右派ウィングからリベラル護憲派ウィングまでのごった煮集団みたいなところがあり、派閥の合従連衡とアメリカの対日政策との距離のとり方のなかで、優劣を決めてきたようなところがある。
三木武夫はクリーン政治家ともリベラル派ともいわれるが、実態はなかなかしたたかな「バルカン政治家」であった。
とくに、岸ー佐藤にいたる保守本流の流れに対抗しながら、その後の田中角栄の登場では、お互いに手法は異なったが、「数と政治の論理」を熟知しあっていた関係であったので、ときには不思議な盟友関係であり、また角栄が(たぶんアメリカの意向で)ロッキード事件で放逐されたときには、三木内閣が利用されることになった。

そんな三木と半世紀政治の世界につきあってきたのが、三木睦子だった。
三木睦子は昭和電工などを設立した森コンツェルンの次女として生まれた。味の素の鈴木家や東京瓦斯などの安西家などとも密接につながっている。
昭和電工は、さまざまな疑獄事件や公害事件などでも名をはせた。

三木睦子はリベラルの象徴、護憲の象徴のように言われることがあるが、僕自身はそんなに単純なものではないと思っている。
この世の中には、さまざまな「闇資金」に対してその真偽はともあれ、一生を費やしてしまうような人たちがゴマンといて、それぞれが「群盲、象を撫ぜる」状態なのだが、まことしやかにささやかれている「伝説」のひとつが、その「闇資金」を管理しているのが、旧昭和電工のグループで三木睦子につながるラインであるというものだ。 
それはともあれとして、三木武夫は「派閥」という意味ではつねに非主流派であったのだが、その後継に恵まれたわけではない。
三木睦子が可愛がっていたのが、海部元首相であり、「俊樹ちゃん」と呼んでいたらしい。
もちろん、水玉ネクタイの海部俊樹は、好いも悪いも三木武夫のようなしたたかな政治家とは較べようもなかった。
また日朝関係のパイプの重要なひとりが睦子であったが、現在の日朝をめぐる状況については、もう彼女なりの手記が残されることも無い・・・合掌! 


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