サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

草分けの父子/柳宗理(工業デザイナー)/96歳

2011年12月26日 | 毎日がメメント・モリ

工業デザイナーの草分け、柳宗理さんが死去


読売新聞 12月26日(月)13時23分配信

 


 
 日本の工業デザイナーの草分けで、日本民芸館名誉館長、文化功労者の柳宗理(やなぎ・そうり、本名・むねみち)氏が25日、肺炎のため死去した。

 96歳。後日、お別れの会を開く。連絡先は柳工業デザイン研究会(03・3353・8336)。喪主は妻、文子さん。

 民芸運動を指導した柳宗悦(むねよし)の長男として東京に生まれた。東京美術学校(現東京芸大)で洋画を学び、建築設計事務所に勤務中、陸軍の宣伝班員となりフィリピンで終戦。物不足の中で陶土に着目し、初期の白い陶器シリーズを生んだ。

 1952年に日本インダストリアルデザイナー協会設立に参加。同年のデザインコンクールでレコードプレーヤーが第一席に。57年のミラノ・トリエンナーレでは金賞を受賞した。

 「用の美」を追求し、機能的なモダンさと、日本の伝統や風土のぬくもりが伝わる作風で、家具、食器、台所道具などロングセラーを生み出した。畳の部屋で使えるイスとして考案した「バタフライ・スツール」(56年)などの代表作は、ニューヨーク近代美術館で永久保存に。札幌冬季五輪の聖火台(72年)なども手がけた。

父親の柳宗悦の展覧会は何度も行ったことがある。
民藝運動の宣言者であり、思想者であり、宗教哲学者であり、制作者でもあった父親の展覧会などに付随して柳宗理の作品が展示されたり、あるいは戦後のインダストリアルデザインのさまざまな回顧展にもちろん柳宗理はもっとも重要な人物として登場するのだが、個人の展覧会に行ったことがないのである。
柳宗悦がバーナード・リーチと親交しながら、ヨーロッパや朝鮮や沖縄の生活に根ざしたデザインに影響を受けながら、民藝協会を起こし、民藝館を開設したように、宗理は戦前にコルビジェの門を叩き、日本のモダニズム建築の第一人者であった坂倉準三の研究室に入り、また輸出工芸の分野の専門家であった関係からも、現在坂倉準三設計の鎌倉美術館でも企画展が催されているが、シャルロット・ペリアン女史と日本の各地を巡回し、日本の伝統工芸にデザインという概念を注入するべく指導を始めた。
戦後は、伝統工芸からくる実用というよりは、工業デザインの流れに傾注し、52年に開催された第1回工業デザインコンクールでは、日本コロンビアの「レコードプレーヤー」で一席を取り、56年には「バタフライ・スツール」を発表し、57年にミラノで金賞をとり、世界的評価を得た。
一方で、民藝につながる活動もしており、「白磁」の陶芸作品などの流れは、宗理の独壇場でもあった。
77年には、父の跡を継ぎ、民藝協会会長となり、翌年には民藝館館長ともなっている。
柳家につながる一族は、芸術の世界に拡がってはいるが、宗理は父宗悦をどのように超えようとしていたのかが、とても気にかかるところだ。
柳宗理の個展は見に行った記憶がないのだが、しかし彼のインダストリーデザインの仕事として、時々訪れる野毛山公園の吊橋であったり、案内板であったり、近くの横浜市営地下鉄のベンチであったりが彼の仕事であったことは知っている。
もちろん、日本のインダストリアルデザイン界の草分けなのだが、僕には公共のなかにひっそりと置かれている彼の仕事の断片が、ある意味好ましく映るのである・・・合掌!

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