サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 11535「シチリア!シチリア!」★★★★★★★☆☆☆

2011年08月15日 | 座布団シネマ:さ行

『題名のない子守唄』などの巨匠、ジュゼッペ・トルナトーレ監督が故郷シチリアを舞台に描く壮大な人生賛歌。トルナトーレ監督自らの半生を基に、1930年代から1980年代にかけてのある家族の喜怒哀楽を生き生きと映し出す。主役を務めるのは、期待の新星フランチェスコ・シャンナ。トップモデルとして活躍するマルガレット・マデがその妻役で出演を飾る。3世代にわたる一家の物語や、たくましく生きるシチリアの人々の生命力に驚嘆する。[もっと詳しく]

ここにたくましい大衆が存在し、その記憶は「映画の時間」に転化する。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督は1956年生まれだから僕とあんまり年は違わないのだが、なんだかずっと年上のような気がする。
彼の代表作である『ニュー・シネマ・パラダイス』(87年)、『海の上のピアニスト』(99年)、『マレーナ』(00年)、『題名のない子守唄』(06年)などどの作品をとってみてもいいのだが、現代劇というよりは、お話の骨格は第一次世界大戦から第二次世界大戦のころ、つまりは20世紀前半に置かれているからだ。
笑いと涙の中で、彼の故郷であるシチリアをはじめとして、イタリアの地方都市の濃密な共同体が描かれている。
そして主軸に登場するのは、彼自身の世代というよりは、その父や祖父の世代であるからだ。



そんなトルナトーレ監督は、07年にローマで暴漢に襲われ、重傷を負うはめになった。
そのこともあったのか、今までの集大成のように、わが郷土、わがパトリオットのシチリアを舞台にした半世紀の物語を描くことになった。
主人公の名前はペッピーノ。これはイタリアではジュゼッペの愛称であり、トルナトーレ監督の半自叙伝といってもいいものかもしれない。
時代は1930年代から1960年代。
冒頭に仲間たちとゲームにいそしむ父親に呼びつけられて煙草を買いに行かされるシーンがある。
貧しい牛飼いの一家であるトッレヌオヴァ家の次男坊であるペッピーノは、シチリアの片田舎のバーリアの町の大通りを、全速で一目散に駆け出すことになる。
この少年がトルナトーレ監督の父にあたることになる。
このペッピーノ少年は貧しいが正義感あふれる人生を送り、晩年に自分の息子を列車で送り出すシーンがある。
息子はカメラを職業としようとしているようだ。
この青年が監督自身と言うことであるのかもしれない。
トルナトーレ監督は、28歳まで故郷シチリアに居住していた。



ラストに近く、山羊に教科書を食べられてしまい、強圧的な教師に反抗して立たされる羽目になったペッピーノが、もう誰も居なくなった教室で夢から醒め、校舎の外に出て町に踏み出すと、すっかり現代化された大通りで車やバイクが飛び交う中に分け入っていくシーンがある。
それは1960年代だ。
駆け出すペッピーノの正面から、冒頭シーンの煙草を買いに走るもうひとりのペッピーノがすれ違う。
ここで時制は、現実を<横超>しているようだ。
それは夢の時間のようでもあり、つまりは魔法のような「映画的次元」に入り込んでいるといってもいい。
煙草を買いに走った少年は、子供たちとの独楽勝負のような遊びに戻ることになる。
少年の独楽は、年上の子の独楽にぶつけられて見事に真っ二つに割れることになる。
少年は、その割れ目を凝視する。
するとそこから一匹の蝿が這い出してくる。
いつだったかボールの修理で蝿を中に入れるといいんだといわれて、閉じ込めた蝿かもしれない。
その時も「この蝿はどうなっちゃうの?」と少年は心配した。
這い出てきた蝿を見て、少年はにっこり笑って、喝采を上げる。



いつものエンニオ・モリコーネが愛情深くスコアをあげている。
1431名のミュ-ジシャンが参加し、収録セッションは25回に及んだ。
35000人のエキストラと63名のプロの俳優と147名のアマチュア俳優が参加した。
2800着の衣装が用意され、200名のスタッフと350名のセット建設技師が用意された。
馬車やカートやクラシック・カーなど250台の車輌が用意され、1500頭の動物も「出演」となった。
9ヶ月の準備期間と、12ヶ月のセット建設期間と、25週間の撮影がセットされた。
122箇所をロケーションし、300000メートルのフィルムが回された。
174のシーン数に2603のショット数、3222の編集用カット数、1107箇所のデジタルエフェクトが必要となった。
こうした数字を書き写しながら、「死」を体験したトルナトーレ監督がこの作品にみせる意気込みのすごさがわかろうというものだ。



かといって、戦争スペクタルシーンがあるわけではない。
黒シャツ党のファシストの暴虐も、笑いに包まれて、揶揄されることになる。
たとえば冒頭のペッピーノ少年が煙草を買いに通りを全速力で駆け抜けるシーンだけをとってみてもいい。
通りを行き交う人々や、立ち止まって会話をする人々や、店の主や横切る身体障害者や・・・それらがこれ以上ないという構図で、計算されて描かれている。
どうやって撮影がなされたのかわからないが、もうこれだけで1930年代のシチリアの片田舎の情景が理解できてしまうのだ。
おまけに、この監督らしく画面は黄色がかったフィルターがかけられている。
甲高いイタリア語でわめき散らす大人たち。笑い声が周囲に広がる。
この田舎町の誰もがペッピーノを知っている。
誰かが冗談を言えば、遠慮のない笑い声が当たり一帯を包み込む。
ここは紛れもないシチリア!である。



チーズ三個と引き換えに羊飼いの家に働きに出されたペッピーノ少年は、岩場である伝説を聞くことになる。
三つの小岩が並んでいるがそこに小石を投げて三つの小岩に連続して当たれば、宝物の詰まった洞窟の鍵が手に入るのだ、と。
少年は来る日も来る日も石を投げ、そして初老となり投げてみた小石がついに三つの小岩に当たることになる。
男はそれで何を得たのか?
男はことあるごとに黒い蛇に追い詰められる夢を見ていた。
どこかで思うように行かない人生に、焦燥していたのかもしれない。
けれども男は家に帰り、子供たちの前で、「いいことがあったんだ」と披露する。
男にはもう一人愛する妻マンニーニとの間に子供が授かったのだ。
小さいけれど、故郷のざわめきと家族の絆と、それさえあればこれにまさる「宝物」はない・・・とでもいうように。
僕たちには、シチリアのどこにでもあるようなきさくな大家族主義が羨ましくも思えてきてしまう。
トルナトーレ監督の人生賛歌に、観客の頬もいつしか、緩んでくる。

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題名のない子守唄






 


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
監督の (sakurai)
2011-08-25 11:13:15
思い入れはわかるんですが、いかんせんまとまりがつかなかった感じでした。
全部描きたい、全部表さなきゃ!という気持ちも痛いほどわかるんですが、もっと焦点を絞って、撮ってもらっても良かったなあと感じました。
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sakuraiさん (kimion20002000)
2011-08-25 15:08:05
こんにちは。
これはもう監督の一世一代の「ワガママ映画」に周囲が敬意を込めて、協力したという事でしょうね(笑)
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世評に反して (オカピー)
2011-11-02 16:18:54
僕はもっと長い方が良いと思ったんですよね。
しかし、上の数字を観ると、見た目以上に贅沢な映画だったんですね。これ以上は無理だわ(笑)。

ヴィスコンティが50年前にその100年前のシチリアに起きた革命を貴族側から描き、ベルトリッチが35年前に20世紀イタリアの半世紀の変遷を農民と資本家両方の視点から描き、トルナトーレが1930年から戦争を挟んだ半世紀を描く・・・イタリアの作家には自国の歴史を事件単位ではなく長期に渡って描きたいという欲求が他の国の作家より高いようですね。
これに「木靴の樹」を加えれば、ガリバルディ以降のイタリアが全部解ってしまうってか(笑)。
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オカピーさん (kimion20002000)
2011-11-04 03:11:00
そうですね。
フェリーニやアントニオーニもいますしね。
なんかケ・セラセラのパッパラパーのようなイメージもあるのに(笑)、歴史に対する思いはすごいですね。
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