姪っ子メグ フィルムセンターの「チェコの映画ポスター展」鮮烈だったね。1960年代、チェコ映画もヌーヴェルバーグの時代だったのね。
キミオン叔父 ヌーヴェルバーグは世界的な動きだけど、表現者がだいたい1930年代生まれなの。プラハにはヨーロッパ最大級のバランドフ撮影所があったし、プラハ芸術アカデミーもあった。社会主義国では、やっぱりチェコとあとはアンジェイ・ワイダらが出たポーランド派がヌーヴェルバーグの拠点だった。
チェコというと、絵本、人形劇、アニメーションの分野では世界的にもオリジナリティを持っている。それに映画ポスターの独特なデザインも加わるのね。60年代初頭のヌーヴェルバーグ登場までは社会主義リアリズムが横行していた。そこに突如として新世代のグラフィック・アーティストたちが元気よく登場したのね。
チェコのヌーヴェルバーグ映画の特徴は、即興の長セリフ、ダークで不合理なユーモア、素人の役者起用などと言われるけど、結構反共産主義の文学を扱ったものも目立つ。ポスターも映画作品のエッセンスだけを取り出し、大胆な異化効果を使ったりして。そのまま映画のスチール写真をレイアウトしましたというものはほとんどないね。ヌーヴェルバーグ自体は、68年の「プラハの春」でソ連が入り込み、検閲が厳しくなって消えていくけど、ポスターデザインの方は、海外作品が入ってきても、国内のアーチストを起用すると言う方針だったので、結構80年代まで特色を持っている。これは世界でも異色のことだったらしい。世界の映画関係者から言えば、配給作品がチェコに入るとこんなポスターになるのか、と新鮮だったんじゃないかな。
でもこの頃のポスターと比べると、いまあたしたちが見ているポスターやフライヤーは全然面白くないね。いつもフライヤーをごっそり仕入れて喫茶店で見るんだけど、なんかほとんどがDVDの表紙みたいに役者さんを大きくとりあげたカットをデーンとレイアウトしているのがほとんどだもんね。ポスター自体に、独立したアート性なんか感じられない。だいたい、映画上映がほとんどシネコンになったし、街の中で鮮烈なポスターが掲示されるという風景もなくなっているものね。
LIXILギャラリーでは「中谷宇吉郎の森羅万象帖展」。「雪は天から送られた手紙である」という美しい詩のような言葉を残した科学者だ。
中谷さんは東大時代に寺田寅彦に感化を受けて、実験物理学を専攻し、卒業後も理化研で寺田研究室の助手となるのね。イギリスに留学した後、北大で助教授となり、京大で博士号を得る。
中谷さんは徹底して写真の記録をとる。寺田の助手時代は「火花放電」。3年間で3000枚の写真を撮った。北海道では「雪の研究」。天然雪、人工雪あわせて20冊のアルバムにきちんと記録が残っている。彼は大学の低温実験室で人工雪の製作に世界で始めて成功した。渡米してからは「氷の研究」。水と真空の泡である美しい雪花のような「アイスフラワー」と呼ばれる「チンダル像」の写真も多く残している。この美しい写真を見て、実験物理の世界に入っていった人たちも多いんじゃないかなぁ。
中谷研究室の関係者からあの岩波映画社が生まれたんでしょ。
岩波映画製作所の第1回作品は中谷研究室プロダクションの「凸レンズ」。科学映画製作が目的だったから、その後は名取洋之助も参加したり、さまざまな分野の人がかかわったりした。オジサンも岩波映画の知り合いは何人もいたよ。 経営不振で倒産するのは1998年、日立が版権などを引き取ったんじゃなかったかな。実はオジサンも当時買収に動いたんだけどさ(笑)
会場でも中谷さんの岩波映画の作品を一部放映していたね。展覧会のタイトルの「森羅万象帖」というのは、北大時代に彼が使った教育方法で、中谷さんも生徒たちも日常の不思議な現象の写真をこのノートに貼り付け、活発に議論していたのね。これも恩師である寺田寅彦が同じように「雑誌会」というのをやっていて、それに倣ったのね。
寺田寅彦も中谷さんも、理科系でありながら随筆や批評もうまくて文科系脳も持っていた。中谷さんは世界に誇る偉大な科学者だけど、その研究テーマはその土地の「風土」に根ざし「人々の役に立つ」ものだった。随筆や絵もうまかったけど、世界に出ていって現地の科学者たちと共同研究もした。なんか実験物理学者としては、幸せな生き方じゃなかったかなと思うよ。
出身地の石川県加賀市に「中谷宇吉郎 雪の科学館」があるのね。そっちも行ってみたいな。
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