2年前に書いたブログ。
今、読み返してみて、うなずけるところがある。
バレンタインデーから10日、経とうとしている。
歳を重ねるごとに、その日のわくわく、どきどき感が薄らいでいく気がする。
それなのにプレゼントされると、とてもあたたかい気持ちになる。
今年は、いつもの年になくチョコレートをいただいた。
毎年の妻と娘たちからのもの。
ホテルフロントの方からのもの。
中学生からのもの。
日赤の前田さんからのもの。
知り合いからのもの。
わざわざ準備をしてプレゼントしていただいた気持ちがとてもうれしい。
そう思うと食べるのがもったいなく思える。
すてきなラッピングやデコレーションも目を楽しませてくれる。
そのうちゆっくりと味わっていただこうと、いまだにある。
チョコレートと言えば、昔観た映画「フォレストガンプ」を思い出す。
とってもすばらしかった。
調べて、ふり返ってみた。
『人生はチョコレートの箱
チョコレートはその甘さと食感ゆえに映画の中では人生を豊かに彩る菓子として描かれることが多い。
「フォレスト・ガンプ/一期一会」 (1994)はそんな作品の代表格である。
守護天使の落し物と思しき白い羽根が上空から風に乗って主人公フォレスト・ガンプ(トム・ハンクス)
の足元に舞い降りるまでをワンカットで捉えたシーンで始まる。
彼がバスを待つベンチで居合わせた人々にこれまでの半生を語り聞かせる回想形式で進行する。
その最初の一人である黒人女性にチョコレートを薦めていうのが次のセリフである。
“Life is like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get.”
(人生はチョコレートの箱のようなもの、開けてみるまで中身はわからない)
フォレストは生まれつき知能指数が低く、背骨が歪んでいるため脚装具を付けないとまともに歩けなかったが、
母はそんな彼を特別扱いせずに女手ひとつで育て上げた。
チョコレートのセリフは、その母の息子への励ましの言葉の一つである。
アメリカではミルク、ナッツ、ヌガーなどいろいろな味のチョコレートのランダムな詰め合わせが売られていることが多い。
ここで言うチョコレートの箱とはそれのことで、
開けて食べてみないと中身がわからないことを先読みのできない人生のたとえとして、
ハンディキャップを背負ったフォレストにも希望があることを教えていた。
彼の人生はこのセリフに象徴される波乱万丈の軌跡をたどる。
母の愛情を受けて天真爛漫に育ったフォレストは、ある日いじめっ子に追いかけられていると、
突然脚装具が外れて信じられないスピードで疾走し始める。
走りながら脚装具が外れていく様子をスローモーションでとらえた映像は、
彼を拘束し束縛していたものから解放されて眼前に拡がる自由な世界に跳躍して行くかのように見える。
彼はその俊足を生かして大学ではフットボール選手として活躍し、
従軍したベトナム戦争では銃弾飛び交う戦場を駆け抜けて命拾いし、
復員後にビジネスで成功した後はアメリカ大陸を走って何往復も横断して一躍時の人となるのである。
そんな彼とは対照的な人生を送るのが彼の幼馴染で運命の人であるジェニーである。
フォレストと小学校のスクールバスで出会った彼女は、母以外に彼をバカにしなかった唯一の味方として、
フォレスト曰く「豆とニンジンのようにいつも一緒」の関係になる。
これはアメリカの家庭料理ではシチューなどを煮込む時に豆とニンジンは必ず入る定番の食材であることから、
切っても切れない関係を示す諺である。
しかし彼女は幼児期に父親に性的虐待を受けた事件がトラウマとなり、
「鳥になってここではないどこかへ逃げ出したい」と願うようになる。
「PLAYBOY」のモデルになって女子大を退学になった後は、ストリップ小屋の歌手やヒッピー暮らしと転々とし、
ブラックパンサー党(Black Panther)の反戦闘争に関わった後に麻薬に手を染める。
実は冒頭のシーンでフォレストはジェニーに久しぶりに会うためにバスを待っていて、
黒人女性に薦めたチョコレートは彼女へのプレゼントなのである。
それをつまみ食いしてしまうあたりが天真爛漫なフォレストらしいのだが、
彼は大学時代にも彼女にチョコレートを贈っており、
それは人生に苦悩する彼女にも母の教えをわかって欲しいという彼なりの愛情表現なのだろう。』
この映画は、一歩踏み出す勇気を教えてくれる。
人生って歩いてみないとわからない。
そうチョコレートとは、喜びと希望の食べ物。
どんなものが入っているか、チョコレート箱を開けて、食べてみないとわからない。
自分の未来、ふるさとの未来と重なる。
いただいたチョコレート箱をいつ開けて食べようか。
その時を楽しみにしたい。
岬人(はなんちゅう)
今、読み返してみて、うなずけるところがある。
バレンタインデーから10日、経とうとしている。
歳を重ねるごとに、その日のわくわく、どきどき感が薄らいでいく気がする。
それなのにプレゼントされると、とてもあたたかい気持ちになる。
今年は、いつもの年になくチョコレートをいただいた。
毎年の妻と娘たちからのもの。
ホテルフロントの方からのもの。
中学生からのもの。
日赤の前田さんからのもの。
知り合いからのもの。
わざわざ準備をしてプレゼントしていただいた気持ちがとてもうれしい。
そう思うと食べるのがもったいなく思える。
すてきなラッピングやデコレーションも目を楽しませてくれる。
そのうちゆっくりと味わっていただこうと、いまだにある。
チョコレートと言えば、昔観た映画「フォレストガンプ」を思い出す。
とってもすばらしかった。
調べて、ふり返ってみた。
『人生はチョコレートの箱
チョコレートはその甘さと食感ゆえに映画の中では人生を豊かに彩る菓子として描かれることが多い。
「フォレスト・ガンプ/一期一会」 (1994)はそんな作品の代表格である。
守護天使の落し物と思しき白い羽根が上空から風に乗って主人公フォレスト・ガンプ(トム・ハンクス)
の足元に舞い降りるまでをワンカットで捉えたシーンで始まる。
彼がバスを待つベンチで居合わせた人々にこれまでの半生を語り聞かせる回想形式で進行する。
その最初の一人である黒人女性にチョコレートを薦めていうのが次のセリフである。
“Life is like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get.”
(人生はチョコレートの箱のようなもの、開けてみるまで中身はわからない)
フォレストは生まれつき知能指数が低く、背骨が歪んでいるため脚装具を付けないとまともに歩けなかったが、
母はそんな彼を特別扱いせずに女手ひとつで育て上げた。
チョコレートのセリフは、その母の息子への励ましの言葉の一つである。
アメリカではミルク、ナッツ、ヌガーなどいろいろな味のチョコレートのランダムな詰め合わせが売られていることが多い。
ここで言うチョコレートの箱とはそれのことで、
開けて食べてみないと中身がわからないことを先読みのできない人生のたとえとして、
ハンディキャップを背負ったフォレストにも希望があることを教えていた。
彼の人生はこのセリフに象徴される波乱万丈の軌跡をたどる。
母の愛情を受けて天真爛漫に育ったフォレストは、ある日いじめっ子に追いかけられていると、
突然脚装具が外れて信じられないスピードで疾走し始める。
走りながら脚装具が外れていく様子をスローモーションでとらえた映像は、
彼を拘束し束縛していたものから解放されて眼前に拡がる自由な世界に跳躍して行くかのように見える。
彼はその俊足を生かして大学ではフットボール選手として活躍し、
従軍したベトナム戦争では銃弾飛び交う戦場を駆け抜けて命拾いし、
復員後にビジネスで成功した後はアメリカ大陸を走って何往復も横断して一躍時の人となるのである。
そんな彼とは対照的な人生を送るのが彼の幼馴染で運命の人であるジェニーである。
フォレストと小学校のスクールバスで出会った彼女は、母以外に彼をバカにしなかった唯一の味方として、
フォレスト曰く「豆とニンジンのようにいつも一緒」の関係になる。
これはアメリカの家庭料理ではシチューなどを煮込む時に豆とニンジンは必ず入る定番の食材であることから、
切っても切れない関係を示す諺である。
しかし彼女は幼児期に父親に性的虐待を受けた事件がトラウマとなり、
「鳥になってここではないどこかへ逃げ出したい」と願うようになる。
「PLAYBOY」のモデルになって女子大を退学になった後は、ストリップ小屋の歌手やヒッピー暮らしと転々とし、
ブラックパンサー党(Black Panther)の反戦闘争に関わった後に麻薬に手を染める。
実は冒頭のシーンでフォレストはジェニーに久しぶりに会うためにバスを待っていて、
黒人女性に薦めたチョコレートは彼女へのプレゼントなのである。
それをつまみ食いしてしまうあたりが天真爛漫なフォレストらしいのだが、
彼は大学時代にも彼女にチョコレートを贈っており、
それは人生に苦悩する彼女にも母の教えをわかって欲しいという彼なりの愛情表現なのだろう。』
この映画は、一歩踏み出す勇気を教えてくれる。
人生って歩いてみないとわからない。
そうチョコレートとは、喜びと希望の食べ物。
どんなものが入っているか、チョコレート箱を開けて、食べてみないとわからない。
自分の未来、ふるさとの未来と重なる。
いただいたチョコレート箱をいつ開けて食べようか。
その時を楽しみにしたい。
岬人(はなんちゅう)
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