西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

西洋音楽史 4

2021-08-27 13:34:46 | 音楽一般
音楽史におけるルネサンスの時代は、1450年頃から1600頃までで、この時代を50年ずつに区切り、(1)ブルゴーニュ楽派、(2)フランドル楽派、それと(3)ルネサンスからバロックへ の時代と前に述べた。ここに出るブルゴーニュ、フランドルはどのような土地で、どうつながるのか見てみたい。
ブルゴーニュは、ゲルマン民族の一派ブルグンド族の名に由来する。437年から534年まで南フランスのローヌ川周辺にブルグンド王国を作った。それ以前、ウォルムスWormsに都していたブルグンド族は、アッティラ大王に率いられたフン族によりグンテル王以下全王族が殺され滅亡した。その遺臣たちが、ローマ皇帝によりアラマン族の防波堤になるよう南フランスに移ることを許されたのだった。
アッティラというと、ヴェルディのオペラ『アッティラ』をすぐ思い浮べるが、フン族によるブルグンド王国滅亡は、1200年頃に書かれた中世ドイツの文学作品『ニーベルンゲンの歌』で語られ、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』の題材となった。
同じゲルマン民族の一派フランク族により、ガリアの地、今のフランスに、481年フランク王国メロビング朝が建てられたが、その初代クロービス1世は最初他のゲルマン族同様キリスト教アリウス派を信奉していたが、496年ローマ・カトリックに改宗した。このことは他のゲルマン族国家を征服する口実となり、534年テウデリヒ1世の時、ブルグンド王国はフランスの一部となったのだった。その後、時代は下り、14世紀バロア朝の時代、第2代ジャン2世は百年戦争中のポアティエの戦い(1356年)で英国側のエドワード黒太子に敗れ、ロンドン塔に幽閉された。次のシャルル5世(在位1364-1380)になり、ブルゴーニュの地はその弟フィリップ剛勇公(在位1364-1404)の支配するところとなった。これが初代ブルゴーニュ公で同公国の始まりである。首都ディジョンの宮廷は著名な音楽家が活躍する場となり、芸術文化が花開くこととなる。フィリップは、1369年、フランドル伯ルイ2世と、ブラバント公ジャン3世の娘マルグリット、の長女であるマルグリットと結婚する。このことにより、ブルゴーニュ公領は、フランドルおよびアルトアの地も併せ持つようになり、公領は広がることとなった。フィリップの後を第2代ジャン無畏公(在位1404-19)が継ぐが、この時は英仏間の百年戦争中でブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立があり、ジャンは暗殺されることとなった。

下記『中世の秋』より。
このブルゴーニュの宮廷で活躍したギヨーム・デュファイ(1400頃―1474)は同じく同宮廷で活躍したジル・バンショワと異なり、イタリアにも赴き、1431年ローマ教皇エウゲニウス4世(在位1431-47)の戴冠式のためにモテット「忠実な教会の都ローマ」を、また1436年に完成したフィレンツェのサンタ・マリア大聖堂の献堂式ではモテット「みずみずしいばらの花よ」を作曲した。そして1453年オスマン・トルコによりコンスタンティノポリスが陥落した翌年にジャン無畏公の息フィリップ善良公(第3代ブルゴーニュ公、在位1419-67)の呼びかけで同都の奪還を求める集会のために「コンスタンティノポリスの聖母教会の哀歌」を作曲した。善良公と次のシャルル豪胆公(第4代ブルゴーニュ公、在位1467-77)は芸術に理解を示し、多くの音楽家が活躍した。シャルルには唯一の女子マリが残された。この結果、ブルゴーニュ公国はフランスに併合されることになり、またマリ(1457-1482)は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(1459-1519、在位1508-1519)と結婚し、ここにフランドルの領地は神聖ローマ帝国皇帝のハプスブルク家に引き継がれることになった。オランダの歴史家ホイジンガはその主著『中世の秋』のシャルル豪胆公に多く言及している。

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