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昔、学生の頃に世話になって
いた川崎にあるカワサキの
バイク屋の店長が野沢那智
さんにそっくりだなぁとい
つも思っていた。
元レーシングライダーで、か
つ富士山にバイクで登山した
人だ。
店に行くと、ゆっくりしてけ、
といつも歓迎してくれて、図
々しくも数時間いたりした。
ソファーで店長のビール飲み
まくってレースビデオ観てた
り。(当時はビデオデッキ
自体が超貴重)
映画『マッドマックス』は
店長の店で初めて観た。
店は今は神奈川県の西部の
市に移転した。
川崎店舗時代のそこでAR50
をRZ350のセカンドバイクと
して購入した。
私にとっては高校時代のMS、
マッハ以来3台目のカワサキ
だった。
買って納車の日にそのまま
そこから広島まで下道を走
った。
広島まで走って横浜に帰れば
ナラシが終わるから。
往復のうち片道だけ途中で名
古屋に実家がある横浜のアパー
トの隣り部屋の日吉のKOボー
イのカワサキ乗りの奴の家に
泊めてもらった。
東山公園の一方通行周回コース
を走ってみた。とても面白いが
公園内車道ワインディングは
非常にリスキーでもあった。
AR50はそれこそフルパワーを
かけられるのでかなり面白か
った。
プラグは一切被らせない。
広島まで行って帰ったら、綺
麗にアタリは取れていた。
常に頗る快調だった。
あまりに面白いので、フツー
に革ツナギ着て峠にARで行っ
てた。
原付50の2ストスポーツは国内
特化モデルらしかったが、面
白過ぎて笑いが出るオートバ
イだった。
きちんと正確な操作しないと
全く走らないが、的確操作を
するとカットビで走る。
そればかりしていると免許無
くなるけど(笑
それどころか、峠の下りツイ
スティコーナーを6速全開で
フルバンク中に前輪チャタリ
ングですっ飛んで大転倒、と
かさ。
VT250はカモ!とか調子こいて
ぶち抜いたら何個目かの下り
でやらかした、みたいな。
もっとひどいのはホンダの
MBXで、ノーマルで100km/h
近く出た。
あれ、公称7.2PSというのは
虚偽だったのではと思える
程に速い原付だった。
実は、ワークスレーサーを
イメージして作られたレー
サーレプリカの一番最初は
カワサキのAR50/80だった
事は意外と知られていない。
スズキのRGガンマ250よりも
2年先だ。
2スト250で充分である。
4スト400で充分である。
だが、排気量とパワーの限界
というものはある。
つい先日、登坂車線で車が前
に詰まっているので巡行して
車寄り待ち走行している私と
同行者を速そうなバイクが左
車線から抜いて行った。
左から?と思ったが、前の車
が避けたので爆追してビタリ
と後ろにつけた。
高速度でバンク旋回。片側2
車線ですぐ後ろの横。旋回速
度はややこちらが速いので抜
かないように気持ち抑える。
高速S字が続く。
だが、旋回中はともかく、立
ち上がりでジワ~ッと離され
る。ジンワリ~という感じで。
並びかけ時に観たら吸排気い
じってる。ノーマル108PS
だがもっと出ているだろう。
排気量はこちらの倍以上ある。
同じメーカーのどちらも旧車。
向こうはアップ気味のカウル
付。
中速コーナー(公道では高速)
をいくつか抜け、前に車が詰
まっていたので車の後ろで巡
行になりかけたら、そのバイ
クは黄色線割って対抗車線逆
走で車を抜かして行った。
私は道譲りしてくれた車以外
それはやらないのでマシンを
路肩に寄せて、置いて来た同
行者を待って合流した。
速い人なのになぁ、逆走しな
くても、とは思った。
見知らぬ人だが、ロードで出
会ってもう少し互いに楽しめ
たのに。TONエリアで。
レッドゾーン下でタコ針ダン
シングさせてto the TONでも
じわりと離されるのは明らか
にパワーと排気量の差だ。
倍以上の排気量、倍PS以上の
差は結構こういうシーンでは
差が出てくる。
でも、いいのよ。あたしはF3
が好きだから。
問題なし。
忍者もいいが剣士が好きだし(笑
ル・マン ~Le circuit des 24 heures du Mans~
タイムリーに現地からの映像。
うちのクラブの綿貫マイクは
選手として耐久世界選手権の
ル・マン24時間にフランスの
ヤマハ3ARTチームから参戦
する。
ヤマハ発動機 挑戦の軌跡
"Yamaha Motor challenge of trajectory".
ヤマハのオートバイ。
それは戦後昭和23年(1948)に
開発が始まり、昭和24年(1949)
に完成をみた。
そして、昭和30年(1955)、
株式会社ヤマハ発動機が誕生し
た。
日本最後発の二輪メーカーは
やがて世界の頂点へと登り詰
めることになる。
井形マリ 世界を駆ける 栄光の鈴鹿8耐
井形マリさんはすぐ目の前で
見るととても小柄だ。
だが、当時の女性レーシング
ライダーとしては第一人者で
男性に交じり全日本125で走っ
ていた。
元はホンダ技研の従業員。
そこで社内チームからレース
を始めた。
だが、29才の時に大事故により
もうレースができない怪我を
負い、引退し後進の指導にあ
たり現在に至る。
マリさんの年の離れた妹の井
形とも子選手は、1985年20才
でレースデビューし、1992年~
1995年に世界グランプリライ
ダーとなって世界選手権WGP
を走っていた。
とも子さんがまた凄くて、こ
れまでの歴史で、日本人選手
で唯一世界選手権フル参戦し
た女性となっている。
ジェンダーである事を公表し、
「とも子」の公称名(本名智子)
を「とも」に変更したが、グ
ランプリでの功績を讃え、女
性として世界組織からも表彰
されている。
なお、現在は全日本は何故だか
本名でのエントリーしか受け付
けておらず、綿貫舞空は綿貫
マイクでエントリーしようと
したら主催者から拒否された。
英語フリガナもMIKEは認め
られず、MAIKUとローマ字表
記にされてしまった。井形
マリさん、井形智子さんの頃
はエントリー名は国会議員名
と同じく本人の自由意思が認
められていたが、現在の運営
はある種40年前よりも後退し
た保守化傾向にあるといえる。
井形さんきょうだいは、日本の
至宝ともいえる。
1980年代のバイクブームの中で
女性ライダーが爆発的に増えた
のは、井形マリさんの存在が
あった事は確かだ。
とても小柄なのにレーシング
マシンを駆って全日本や世界
耐久選手権を走るマリさんの
姿は、日本の女性に希望を与
えた。
1980年代は昭和元禄末期だが、
まだまだ「女のくせに」とか
いう気風が国内に強く残って
いた時代だった。
その中でのマリさんの活躍は
それはもう輝かしかった。
マリさん、実際に見るととても
可愛い人。
1985年の鈴鹿8耐の時に私が月
刊プレーボーイのバイト取材で
鈴鹿サーキットに行った時、
マリさんは客寄せパンダのよう
にされて炎天下の中サイン会で
延々とサインしていて、少し
ふてくされ気味で、普段全日本
のパドックで見る表情と違って
いた。
1987年に凄腕メカニックの元
ホンダの小嶋さんと結婚して
現在に至る。
今は、筑波サーキットのそばで
レーシングサポート会社をお二
人で経営なさっている。
マリさんは私の2歳上、3学年上。
東京都文京区出身。
井形マリさんは私と同い年の小
沼加代子に続く国内で二人目の
国際A級ライダーだった。
小沼もノービス時代から激速
かった。小沼はノービス時代は
富士でよく練習していた。
小沼がコースレコードでなく歌手
としてレコード出したのは何か
の気の迷い、間違いだろう(笑
ただ、ある時、富士で「男に負
けた!」とわんわん泣いていた。
そして歌に行ったか。それは無
い(笑
小沼は平尾昌晃のラジオ番組に
も出たりしていたから、それが
音楽活動のきっかけだったのか
も。ただし本職はレーシング
ライダー。
掘ひろ子、小沼加代子、井形
マリは1970年代~1980年代の
日本を代表する女性レーシング
ライダーだった。
ひろ子さんは1970年代、サンデー
ライダーズというチームにいた。
1976年夏前、埼玉県大宮市の
タカヤマボウルというボウリ
ング場の駐車場にトランポが
停めてあって、中にひろ子さん
のホンダMT125レーサーが積ん
であったのを見た。
友人と「あ、ロコさんのマシン
が載ってる」と言い合いながら
眺めていた事があった。
2台MTが積んであり、右側が
ひろ子さんのマシンだった。
当時の堀ひろ子さんは、モデル
さんのような美人で、少年たち
の憧れでもあった。
で、少年たちはボウリング場に
入って行ったけど、ひろ子さん
何故かいなかっただよな(笑
堀ひろ子さんは、日本人初の
女性ロードレースライダーだ
った。
1949年東京生まれ、1985年永眠。
当時日本のレースは女性に門戸
を閉ざしていて、特例として
日本で初めて1976年に堀洋子
さんのみに参加が認められた。
大変な努力と折衝があった事
だろう。
堀さんの功績により、その後
女性のレース参加が認められる
ようになった。
そして、小沼加代子さん、井形
マリさんが輝かしい軌跡のライ
ンをトレースして、女性たちに
も二輪の素晴らしさを広めた
歴史がある。
その足跡は、1980年代に開花
した。
1980年代は女性も参加する二輪
文化揺籃期でもあり、一般社会
でも女性が社会進出できる環境
が生まれつつあった時代でもあ
った。まだまだ女性差別はあっ
たが、だんだん蕾が花開く時期
でもあった。真の自由と平和を
人々が求め始めた時代が80年代
だった。
1980年代が輝いていたのは、
それは人々が輝いていたから
だ。
井形マリさんも、そうした時代
の中でトップで輝いていた女性
だった。
便宜上私は「ツーリング」という
単語は使うが、自分の中では二輪
走行外出において観光気分の道行
きは殆ど無い。
それは確かに道々での景色を見た
り、名所を訪れたり、訪問先で特
産品を食べたりするのは楽しいの
は楽しいが、私の楽しみのメイン
は別にある。
それは「ロードを走る事」その
ものが一番楽しいのだ。
景色は素晴らしくとも一過性だ。
それは走行の流れとともに遠ざ
かる。
だが、マシンと対話をしながら
の走行はずっと継続するのだ。
すべてにおいて状況が違うロード
が次から次に現れてそこをずっと
マシンと共に走って行く。
自分とマシンは常に一緒にいる。
橋の無い海峡以外、ロードは全国
どこまでも繋がっている。
そこを走り続ける。マシンと同調
してマシンを操縦しながら。
それが私は一番楽しい。
目的が場所の移動ではなく、また
観光地巡りなどでもなく、二輪に
乗って操縦する事、ロードを走る
事そのものが楽しいし、それを求
めている。
オートバイは人それぞれいろいろ
な楽しみ方があるが、私の場合は
それ。
逆にいうと、景色風景第一では
ないので、ロードはどこでも楽
しい。
ツーリングスポットと呼ばれる
場所であっても、目指すのは景
色風景観光名所ではなく、道の
レイアウトにこそ私が求めるも
のがある。
そして、人の顔を忘れないよう
に、これまで走ったロードの
殆どを覚えている。
似たレイアウトや路面状況の
道に出くわすと、「あ、これは
いついつ走ったあそこに似て
いる」と思い出す。
人の顔を見て「あ、あの人の
面影に似ている」という感覚
が浮かぶように。
走り続ける時、ずっとオートバイ
と対話しながら走っている。
それが1日何時間もずっと継続す
るのが楽しい。
今まで休息を挟みながらどれく
らい二輪に乗り続けたのだろう
と振り返ると、20数時間連続し
て乗った。
それは勿論若い時ではあるが、
還暦を過ぎた今でも1日750km
程は走るので、時間にすると
かなりの時間ライドしている
事になる。
楽しいのだ。
二輪と共に走る事が。
たとえどんな道であろうとも。
これは同じコースを周回する
競技とは全く別な次元の楽し
み。
競技は勝負だが、公道での走り
に勝負は無い。ややあったりも
したが、そこには名誉もプライ
ドも称賛も無い。本質的な点で
は。
コースでの本チャンやストリー
トバトル等で競い合う事がなく
とも、一般ロードで質の向上を
目指しながら楽しむ事ができる
のが私の場合のロードライディ
ングのメルクマールとなって
いる。
とにかく、走る事そのものが
楽しい。