渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

台湾の地震

2024年04月03日 | open



沖縄の被害はさほどでもなかった
が、台湾が大変な事になっている。
東日本の時に台湾は心ある支援を
してくれた。
今回、日本も台湾に救恤の手を
差し伸べるべきだろう。


またもやらかす静岡県知事 ~公的場で許されざる差別発言~

2024年04月03日 | open

【全文】物議醸す静岡・川勝知事の訓示 新入職員を前に職業差別? 繰り返される失言「みなさんは頭脳・知性高い」|FNNプライムオンライン

【全文】物議醸す静岡・川勝知事の訓示 新入職員を前に職業差別? 繰り返される失言「みなさんは頭脳・知性高い」|FNNプライムオンライン

川勝知事が新入職員への訓示で、第一次産業や第二次産業を蔑むかのような発言をしたことが物議を醸している。知事はかつて御殿場市を揶揄するかのような発言をした際に「切...

FNNプライムオンライン

 

<一部抜粋>

川勝知事の潜在意識?
職業差別を露見

そしてですね、そのためにはです
ね、やっぱり勉強しなくちゃいけ
ません。実は静岡県、県庁という
のは別の言葉でいうとシンクタン
クです。毎日、毎日、野菜を売っ
たり、あるいは牛の世話をしたり
とか、あるいはモノを作ったりと
かということと違って、基本的に
皆様方は頭脳・知性の高い方たち
です。ですから、それを磨く必要
がありますね。で、それは磨き方
はいろいろあります。知性を磨く
ということ。それからですね、や
っぱり感性を豊かにしなくちゃい
けない、それから体がしっかりし
てないといけませんね、ですから
文武芸、三道鼎立と。文武両道と
いうのは良く聞くでしょう。しか
しですね、美しい絵を見たり、良
い音楽を聞いたり、映画を見たり、
演劇を見たりした時にですね、感
動する心というものがあると望ま
しい。

ですから、自分の知性がこの人に
及ばないなと思ってもですね、
<以上一部抜粋>


たわけ。
そのほうは知性のかけらも無いわ。
蔑視の長の痴れ者が。
否、うつけ者めが。
不届き至極である。



1977-1993 スクーターCM集

2024年04月03日 | open

1977-1993 スクーターCM集
多少発売時期と動画の流れは
前後するが、時系列を追
って
のスクーターCM特集動画。

ホンダがロードパルを出して
日本の原付ブームに火が付い
た。
ヤマハはホンダ追撃モデルで
ステップスルーのスクーター
を国内で10数年ぶりに復活
させた。それがパッソル。
これは世間の度肝を抜いた。
ホンダ、スズキもやがては
ステップフロア式のいわゆる
スクーターを出さざるを得な
かった。ホンダはカレンで
試み、タクトで本腰でスクー
ター投入となった。

だが、どうしてもモペッド感
がまだ強かった原付スクーター
に本格的スクーターを投入して
きたのがスズキだった。
その名はジェンマ。イタリアの
風。盟友のジュリアーノ・ジェ
ンマまで起用してのCM作戦に
出た。
ホンダはソフィア・ローレン
起用で1976年に初めて女性向け
原付のセンセーションを起こし
たが、ヤマハは日本の名女優の
八千草薫をあてていた。
ホンダは次には大衆的に親しま
れる路線で当時新人の大竹しの
ぶをCMに採用して展開した。
ホンダとヤマハのこのCM路線
は「女性参加型」バイクのイメ
ージ戦略の魁となった。

そこにスズキが「本格派スクー
ター」としてジェンマをぶつけ
てきたのだ。イタリアロケで。
正直、その車両のイタリア風味
ぶりに二輪乗りたちはぶったま
げた。それまでの日本風味は
一切無く、まるでベスパのよう
なテイストを出していたからだ。

これほどまでに本格的なデザイン
のスクーターは存在しなかった。
一気に他の国産メーカーの原付
スクーターがチャチに見えた。
ホイール片持ち機構まで採用した
スズキジェンマは、1981年に登場
した。

ホンダとヤマハのいわゆるHY戦
争の火種は原付50だった。
それは1976年に開始された。
激化するのは1980年代だ。
1980年代は空前絶後のバイク
ブームが巻き起こったが、実は
それは原付の主婦・学生・通勤
者層をいかにユーザーとして取
り込むかにかかっていた。
日本のバイクブームを支えたの
は、自動二輪オートバイではな
く、間違いなく原付販売数だっ
たのは確かな現実だった。
原付使用者層からも自動二輪層
に移行する人たちも増え、原付
隆盛と相互作用でさらに二輪人
口が増加の一途を辿ったのが
80年代だ。

原付50は、スクーターを中心と
して、アイドル歌手たちもCM
にどんどん起用してPRが展開さ
れた。それは1980年代の国内の
超絶バイクブームにさらに拍車
というよりもブーストチャージ

ャーのような推進力をかけたの
だった。本当に「爆発的」とい
うバイクブームが1980年代だっ
た。
二輪は自動二輪まで含めて、下

りたら歩行者扱いで、歩道に
駐輪しても法的に違法ではなく
取締りもされなかったという
時代性もかなり大きく影響した。
喫茶店だろうが百貨店だろうが
街の買い物スーパーだろうが、
バイク
でどこにでも行けたのだ。

熾烈なHY戦争の間隙を縫って、
スズキは虎視眈々と狙いを定め
て1981年に原付界にジェンマを
投入してセンセーショナルを
起こし、さらに1983年には大革
命オートバイであるガンマ250
を登場
させて更に世の中の度肝
を抜い
た。それ以前に輸出向け
カタナを出した時からのスズ

の一発撃破路線は、やがてスズ
菌と呼ばれる熱烈なファン層を
発生させる事になった。スズキ
は原付と自動二輪の双方におい
て抜かりの無い戦略を固めてい
た。
1980年代末期にカワサキが二輪
製造そのものを廃業するかと
重工で検討されるに至った背景
は、カワサキは原付ファミリー
バイクを一切手掛けなかった
からというのは確実にある。
自動二輪だけでは二輪車メーカー
としては不十分な時代に入って
いたからだ。それはもう1976年
から。
カワサキは1981年にスポーツ
原付のARを出したが、その時期
にはスクーターは手掛けなかっ
た。かつて大昔のカワサキの
1号機はスクーターだったのに。
たかが原付、ではない状況が
当時は存在し、実質的にホンダ、
ヤマハ、スズキの収益の多くは
原付ファミリーバイクに頼って
いたし、それが軸線の基盤とし
てあって、初めて自動二輪の
販売促進も大々的に展開できた。
カワサキは背水の陣のゼファー
がヒットしなければ現在はカワ
サキという二輪メーカーは消滅
して存在していない。重工本社
決定で二輪部門廃止が俎上に上
げられる寸前だった程にカワサキ
のオートバイが売れていなかった
からだ。
原付こそが日本の二輪普及と二
輪文化を支えて来たというのは、
大げさな事ではなく、経済産業
の歴史を振り返ると事実として
存在したのである。

2025年。原付50ccの新車は世界
から消滅する。
そして、事実上、黄色ナンバー
(50ccから~90ccまで)の原付
2種車両も制度上は残っていても
現実的には消滅するだろう。
旧50と同じ程度のエンジン能力
にされた新原付(桃色ナンバー)
と旧原付125機種のみが存在す
る世の中になるだろう。
実につまらない。
スズキジェンマは50、90、125と
ラインナップがあった。
それぞれに意味のある需要があっ
たからだ。
実のところ、実際のニーズには
変化はない。
ユーロ排ガス規制により、ニー
ズ等の実情とは別次元の外力で
車両規制が実行されるのだ。
勿論、排ガス規制が環境保全の
為などというのはまやかしだ。
だったら、1970年代から今の
ような厳しい措置を取ればよい。
なぜトラックも含めて排ガス規制

は小出しにちょくちょく出すのか。
それは排ガス規制のすべては「政
治経
済操作」を主目的としている
からだ。国際政治駆け引きの中で。

そして、使用者の側のニーズや
要望や運行実態を一切勘案せず
に実施されるのが排ガスおよび
各種規制だ。
世界の権力者がそれをやる。
ニセエコクリーンキャンペーンで。

原発推進の構造と全く同じ。
つまり、現実に生きている下々
の事などはどうでもよく、一切
考えていない。
そうやって、その流れの中で日本
の原付50は消えて行
くのである。
日本では警察庁が主導して法改
正を実行した。
国家の手先の警察がすべてを
掌握しているのだ。
日本は警察国家なのである。

なお、与野党においても、排ガス
規制とそれに連動した国家警察
主導型の法改正等の問題性につい
て審議
を呈する政治家たちは一切
いない。

日本は民主主義の国ではないから
だが、あまりにも分かり易いの
が笑える。


沖縄に津波

2024年04月03日 | open



台湾の地震により沖縄に津波。
3mの第一派津波が到達。


雨の時期

2024年04月03日 | open


毎年、今の時期雨が降る。
きょうなどは、朝から雨で
雷も鳴っている。
雨は嫌いではないが、それ
は都会の雨だ。
走り出すにはやはり晴れが
いい。


2024年04月03日 | open



雨なのぜ。


映画『蘇るヒーロー 片山敬済』

2024年04月03日 | open

蘇るヒーロー 片山敬済
(1984年8月25日劇場公開作品)



このドキュメンタリー映画の
中で、片山さんが世界チャン
ピオンフレディ・スペンサー
はじめグランプリライダーた
ちと話をしているシーンが好
きだ。


ホンダワークスのチームメイト
と。片山さん、ロン・ハスラム、
フレディ・スペンサー。
片山さんが怪我をして、新開発
の背骨プロテクターについて
フレディに尋ねたら、フレディ
は予備があるからいつでも使っ
てくれと言う。


フレディは普段から早口でまく
したてるような喋り方はしない
が、このシーンを観て、彼があ
えてさらにゆっくりとはっきり
と話して意思疎通をしようとし
ているのが判る。フレディにこ
んな気遣うところがあったとは
驚いたが、GPライダーがみんな

「相手に分かるように話す」と
いう特徴があることがこの後の

シーンで判明する。
マシンとコミュニケーションで
きる能力がある人は人に対して
も「対話」ができなければなら
ないという基本中の基本を彼ら
世界のトップライダーたちに見
ることができる。

一方的に早口で自分の言いたい
ことだけをまくしたててコミュ
ニケーションを成立させないよ
うな人間はグランプリシーンに
はいない。


これは、かつて世界チャンピオ
ンを何度も取った、イギリスの
バリー・シーンだ。サーの称号
を持つ。


ここでもバリーは片山の怪我の
具合などを気遣っている。

そして、ゆっくりと穏やかに話
している。

若くして病気で亡くなってしま
ったのが悔やまれる。

ドナルドダックが大好きで、ヘ
ルメットのデザインはドナルドの

絵が描かれていた。チャンピオン
になってもゼッケンは7を使い続
けた。成績を無視して自分のナン
バー7を使ったのは彼が初めてで、
現在MOTO GPではケビン・シュ
ワンツの34番と共に永久欠番と
なっている。私も大好きなライ
ダーだった。タバコはヘビー・
スモーカー。




片山さんはカメラを自分で持って、
どんどんパドックのレーシング

ライダーを取材する。

アメリカのランディ・マモラ。
日本でもファンの多い人だ。

すんでのところで毎年チャンピ
オンになれず、無冠の帝王との
異名がある。アグレッシブな走
りの彼は、GPの中で一番陽気な
人だった。日本4社、イタリア1
社というGPワークスすべてに乗
ったのは世界広しといえども彼
だけだ。



片山さんとのやりとりも陽気だ。














誰もがフレンドリーである。
国を超えて、国境を越えて正々
堂々と戦う彼らは、たとえ対戦
者であっても、レースを終えた
パドックにおいては家族のよう
なものだった。スポーツマンの
心をごく自然に有している人た
ちの姿がそこにある。

それは、世界グランプリが「コ
ンチネンタル・サーカス」と呼
ばれたように、モーターホーム
やテントでサーキット内で集団
生活しながら世界各国を転戦し
ていたからだろう。

だが、1990年前後から「コンチ
ネンタル・サーカス」は消滅し
ていった。

サーキットに寝泊まりせず、ホ
テルに宿泊したり、他の者とか
つての人たちのように交流をし
ようとしないライダーが増えて
いった。
人の意識も生活様式も移り変わ
っていったのだった。
F1にしてもオートバイの世界GP
にしても、コースの安全性など
について、ドライバーやライダー
は真剣に討議して主催者に交渉
したりしていた。
ところが、だんだんと抜け駆け
で和を乱すような選手も出てき
た。
豪雨で危険なためボイコットを
呼びかけたのに、ポイントがほ
しいがために和を乱して参加し
たり、あるいはレース場面でも、
ライバルのポイントを潰すため
にわざと突っ込んで転倒させた
りとかするライダーも出てきた。
それまでもラフファイトはあっ
たが、それは互いの正々堂々と
した競技の駆け引きの中で行な
われていたのだ。
だが、やがてそれらも消滅し、
安全性も放棄して、己のことだ
けを考えるGPライダーも出てき
たのである。『バリバリ伝説』
のタコ根沢のようなのが現実に
出てきたのだった。
時は流れた。遠い彼方へ。

コンチネンタル・サーカス-
それは、遠い昔の熱く温かく、
そして冷徹な勝負の世界に生き
る者たちが帰って行く故郷のよ
うなものだった。

今は、もうない。
この映画は、かつて30年前に
は存在した、現在は失われた
ひとつの「空気」を今に伝え
る貴重なドキュメンタリー作
品だ。