渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

非売品のビールコップ 〜1968年製〜

2024年04月20日 | open
 

このコップすげえべ?
業者用非売品のビールグラス。
昔のラーメン屋やメシ屋御用
達のやつ。
1968年製だぜ(笑
首都騒乱の燃え上がったあの
1968年。
日本だけでなく、パリも燃えて
いた。カルチェラタンだ。
 
飲むのは当然これ。
健さんが映画で出所後に最初に
メシ屋で飲
んだやつね(笑


高倉健 サッポロビール、
醤油ラーメン、カツ丼 
映画『幸せの黄色いハンカチ』
1977年











サッポロラガー。
最高にウマい。
世界一。
 
 
 

挙動特性 〜ベスパLX125ie〜

2024年04月20日 | open
 


コーナーでもグイグイとフロ
ントから回る。
その挙動特性は、前輪の先端
がインに切れ込むのではなく、
前輪の後端が外に向いて流れ
るようなステア特性。
まるで、四輪車のアクティブ
リア操舵システム(4WS)の感
覚のような挙動。
これはベスパ独特のものだ。
ゆえにスラロームなどはスラ
コンスラコンとこなす。
ストレートリニアではない操
舵性は一見接地感を感知し
いかのようだが、そうでは
い。
スライドやドリフトとは異な
る二次ステアが加味されたよ
うな挙動で、体感でそれは即
知できる。
そして、その挙動はとて
御下に置き易い。「意思
通り」
にコントロールでき
るのだ。
実にコントローラブル。
極めてプレーアビリティの高
い二輪に仕上がっている。
かつまた、多分サスが良いの
だろう。路面からのレスポ
スをダイレクトにハンド
ルに
伝える。
グニョグニョのガバガバな柔
らかいサスがもたらす誤魔化
しの操安性ではない。
リニアに乗り手に状況を伝え
るハンドリングにされている。
私はこうした挙動特性のハン
ドリングは嫌いではない。
むしろ好き。
但し、旋回特性における二次
的なステア挙動を見せるので、
感知してトラクションを
手が適切対処できない人
たちには違和感が大きくな
特性にまとめられている
ので
はなかろうか。
基本、ケツ乗りの特性の二輪。
そして、絶対に肘伸ばしで腕
突っ張りのガチガチ硬直載り
はしてはいけない二輪。
乗る人は選ぶ。
そこが国産スクーターとはまる
で異なる。
フレームはしなやかだが、ブ
ヨンブヨンではなく、直線と
旋回で別な類系に属する動き
を現出させる。
シルキーと喧伝される所以は
その境目がキッパリではなく、
漸次的にグラデーションのよ
うに移行する特性があるあた
りからだろう。
モノコックフレームがしなや
かな分、サスは硬めの初期
ッティンになっている。
しかも、ちぐはぐさは一切無
い。良い車作りをしている。
エンジンは元気よく回る。
 
ちなみによく寝る。ペタンと。
そして、よく曲がる。
曲がらない二輪は非常に扱い
にくいが、このベスパ125は
走行能力はかなり高い。
ブレーキはロードスポーツモ
デルに比べると制動力自体は
落ちる。
だが、スクーターはこんなも
んだろう。
 
 
 

シーサイドレストラン

2024年04月20日 | open
 


東本劇画『雨はこれから』の
主人公の松ちゃんにそっくり
なマスターがやっているシー
サイドレストラン。
何度見ても見返しても激似。
ただ、髪は長く、後ろで総髪
にしている。





店内に静かに流れているのは
JAZZ。
最高なのだ。
本日15:00、混んでる。
8組で満席。
かろうじてカウンター前の2人
席に座れた。
この2人席のみテーブルに花が
あるのが嬉しい。


自家製ベーコンとペパロニサラ
ミのピッツァを頼んだ。
かなりウマい。
薄生地の本格派。
いや、ホントにおいしい。
「激ウマ!」ではなく、そ
こはかとなく美味しいとこ
ろが良い。


ブレンドコーヒーもおいしい。
ここは良い店だ。
ピッツァとコーヒーで2,200円
ちょっきり。
私は気に入ってる店。
マスターカッチョいい。
なんだかJAZZマンみたいな
雰囲気ぷんぷんだ(笑
女性店員さんたちも感じ良い。
おすすめの店。
 
 
 
 

山登り

2024年04月20日 | open
 


表が法面崩落により全面通行
止めなので裏峠から山登り。
道幅狭く荒れているので、旋
速度は40上あたりしか出せな
い。
 
ここは安芸国。向こうに見える
は備後国。


手前に見えるサーキットみたい
なのは三菱の新都市交通の自動
制御システムの試験場だ。


三原の西側。


三原駅、三原港、城町、館町、
本町あたり。つまり城内と城
下エリア。
手前の埋め立て地は江戸期に
は海だった。

三原城の本丸真上に鉄道の駅
が作られた。
正面の山が桜山で、中世に
山名氏の城があった。その
山肌に見える建造物は市内
の建設会社の社屋予定地。
本格的な城郭と同じ石垣で
山肌部分を覆っている。
城郭石積みの職人さんは全
国でも数える程しかおらず、
その人たちを招聘して工事
したようだ。立派な石垣で
本物の城の石垣と変わらな
い。元々は私立緑ヶ丘女子
高校の跡地。今は男子校の
私立三原工業高校と合併し
て共学となり郊外に移転、
校名を変えて如水館高校と
いう高校野球の強豪校の高校
になっている。入試偏差値は
かつてより30程あがり、そこ
そこの中堅高校に変貌したよ
うだ。現在特進クラスの偏差
値は69。

三原の西、糸崎。


秦の山。


筆影山。




暫く寛いでから下山し、シー
サイドを走る事にする。
雨が降りそうだ。
そうだ、「雨はこれから」の
マスターがいる店に行こう。
 
 

2024年04月20日 | open





庭の藤棚の藤が咲いた。

 


1988年 WGP R1 鈴鹿 250cc 本間利彦

2024年04月20日 | open

1988年 WGP R1 鈴鹿 250cc



世界グランプリでポールポジ
ションを取る事がどんな事で
あるのか。
それは、その時、その者は世界
でただ一人という事だ。

WGPで50と350は廃止されたが
まだ80ccクラスのレースがあっ
た時代。
最高峰は500クラスだったが、
バトル展開の花形は250だった。
そして、地球上でもっともロー

ドレースの人気が高かった時代
でもある。
日本国内はバブル経済により、
国民所得が爆発的に増えた時代。
28才あたりの給与は勤務先にも
よるが、大体年収600万円前後
だっ
た。銀行等の金融関係勤務
800万円超え。20代でそれ。
600万円で売りに出された原宿
のワンルームマンションは半年
後には6000万円で即売れた。
そういう時代。狂乱経済時代。
バブル期の頂点が1988-89だ。
バブルは1990年に崩壊し、その
後の経済低迷の暗影は2024年の
現在までも続いている。
バブル政策で一番得したのは誰
か。

それは大蔵省(当時)だ。
つまり国家。
作為的な金融操作により国際収支
のツケ
を清算した。
だが、新たな大きなツケは国民

が背負わされた。




 


1996 GP250 Rd.7 MINE 本間利彦

2024年04月20日 | open

1996 GP250 Rd.7 MINE
「やっと勝てましたぁ!! ...」
2年間の開発ライダーを経て
全日本に復帰した本間利彦が
3年5ヶ月ぶりの優勝


市販車のTZ250でスズキRGV
ガンマ、ホンダNSRのワーク
スマシンを抑えての優勝。
日本一速かった本間利彦の
3年5ヵ月ぶりの優勝。
だが、優勝から
遠ざかって
いた開発担当の
時期に得た
物は多大なるも
のがあった
だろう。
優勝するのが目的ではない

仕事をしていた時期が長か
ったので、当然「レース」は
できない。ワークスライダー
としてたまにレースにはエン
トリーして
走ってはいても。
バトルでは
なくデータを取る
目的がある
から本チャンの時
に「レース」はしていない。


このレース、本間選手はフォー
ムと乗り方を変えている。
理由はリヤトラクションの
扱いと関連しているだろう。
処理の仕方は1986年の世界
チャンピオンのカルロス・ラ
バード
に似ている。
トラクションを適正に得なが
らもタイヤを温存する職人技
走法を駆使している。

1993年。本来は本間選手が
ヤマハからWGPに行く筈だ
った。だが、鈴鹿での重大事
故によりWGPフル参戦は断念。
本間選手のマシンとスタッフ
全員が丸々原田哲也選手の為
に運用された。
結果、原田選手は世界チャン
ピオンとなった。
本当ならば、本間選手が世界
チャンピオンになっていただ
ろう。
一発の速さでは本間選手は
WGPでポールポジションを
取ったりしていた程の速さ
だった。

ただ速い人は世界の中で幾人
かいる。
だが、マシン作りをできる
運転手はそうそういない。
本間利彦はその稀有な一人だ。
世界に何人もいない。

1996 GP125 GP250 Rd.7 MINE





フロリダ通信

2024年04月20日 | open
 


 
フロリダのディズニー・ワー
ルドには日本
があるみたい。
ちょっと違うけどなぁ(笑

山手線の内側1.5倍の広さのワー
ルド。世界一の広さのリゾート。
一ヵ月程滞在しても全てを回れ
ないみたい。

遥か彼方までディズニー・ワー
ルド。




山手線内の1.5倍の敷地なので、
移動はバスかこれ。


あるいはこれ。




朝採れ野菜

2024年04月20日 | open
 

けさ朝一に庭先で採ってきた
サヤエンドウ(上)とスナップ
エンドウ(下)
 
サンチュもあるでよ~。
やろみゃ~、やろみゃ~。
(何を)


 
 
 

力技で上達する⇒上達しない ~本間利彦、真髄を語る~

2024年04月20日 | open

力技で上達する


世界一の人が言ってる。
これは「上達」に関する要諦
を話している。取り組み方に
ついて。

まさに正鵠を射る話。
つまり、我武者羅な猪突猛進
の一本調子の力技では上達は
しない。


別な話題だが、本間利彦氏は
ミャンマーに小学校を建てて
地元の子どもたちの教育環境
整備に貢献した。私財を投げ
うって。
レースとは別な話だが、そう
いう人。
勿論、売名行為などではない。
自分の事だけを考えている人は
そういう事はしない。

人を愛しているからやる。
「自分の事しか考えない奴は

自分をも滅ぼす奴だ」(「七人
の侍」島田官兵衛の言葉)。
レースについても、レーシング
スポーツとそれをやる人たちを
愛しているから、いろんな事を
本間利彦氏は語る。
それゆえ、良くないものは良く
ないと言い、良いものを良いと
言う。ズバリと。
それが理解できていない人が
多い。
また、そうした理解できてい
ない人たちは、本間利彦は真
に世界一の能力を持つ稀有な
逸材であるという事を理解し
ていな
い。

だが、難しい問題もある。
本間氏の事を理解できない事
も、本間氏が語る内容が理解
できない事もそうなのだが、
人には理解できる能力がある
か否かという問題が常につき
とうからだ。
理解できない人は、まず理解
しようと脳を働かせない。
つまり、一生理解できる事は
訪れない。
これは本間氏に対しての件に
限らず、世の中の全ての事象
や存在についていえる事だ。
世の中には「解る人」とそう
ではない人たちがいる。
そして、「理解」ができない、
その能力を持たない人たちは
圧倒的に多数派なのだ。

今回の本間氏の話の内実は、

日本の伝統武術の道を極める
事にも通じる。
なぜ、日本には例えば剣術
だけでも数百派が存在したの
か。
それは、どんどん新たに新機
軸の術技を武芸者が自ら編み
出してきた歴史があるからだ。
固定的ではなく、流動的であり、
しかもそれは発展性を常に伴っ
ていた。
だからこそ数えきれない技法
と流派が生まれて、活き活き
とした隆盛をみた。
武士がいた時代の武術は生死に
かかわるので、技法の優劣は
まさに文字通り死活問題だった。
下手を踏むと自分がすぐに死ぬ
のだから。これは戦法において
も然り。戦闘は戦技と作戦の
二つから構成されるが、固定

固着観念のままでいるとま

負ける。イコール死だ。

ロードレースも命がけである。
下手踏むと簡単に死ぬ。
日本武術がどうしてあのような
技法と流派が多岐に亘るという
歴史的特徴を帯びたのか、今回

の本間氏の話はまさにそれに通
じるも
のがある。

本間氏が我が一族の一員として、
建暦3年(1213)5月3日に3000騎
を引き連れて鎌倉由比ヶ浜に
駆け付けた時のような、極めて
重要な士魂の在りか、在り様に
ついて垣間見た思いがする。