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このコップすげえべ?
メシ屋で飲んだやつね(笑
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高倉健 サッポロビール、
醤油ラーメン、カツ丼
映画『幸せの黄色いハンカチ』
1977年
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/b4/dc199c10390d58100a2327277a8b5659.png)
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1988年 WGP R1 鈴鹿 250cc
世界グランプリでポールポジ
ションを取る事がどんな事で
あるのか。
それは、その時、その者は世界
でただ一人という事だ。
WGPで50と350は廃止されたが
まだ80ccクラスのレースがあっ
た時代。
最高峰は500クラスだったが、
バトル展開の花形は250だった。
そして、地球上でもっともロー
ドレースの人気が高かった時代
でもある。
日本国内はバブル経済により、
国民所得が爆発的に増えた時代。
28才あたりの給与は勤務先にも
よるが、大体年収600万円前後
だった。銀行等の金融関係勤務
は800万円超え。20代でそれ。
600万円で売りに出された原宿
のワンルームマンションは半年
後には6000万円で即売れた。
そういう時代。狂乱経済時代。
バブル期の頂点が1988-89だ。
バブルは1990年に崩壊し、その
後の経済低迷の暗影は2024年の
現在までも続いている。
バブル政策で一番得したのは誰
か。
それは大蔵省(当時)だ。
つまり国家。
作為的な金融操作により国際収支
のツケを清算した。
だが、新たな大きなツケは国民
が背負わされた。
1996 GP250 Rd.7 MINE
「やっと勝てましたぁ!! ...」
2年間の開発ライダーを経て
全日本に復帰した本間利彦が
3年5ヶ月ぶりの優勝
市販車のTZ250でスズキRGV
ガンマ、ホンダNSRのワーク
スマシンを抑えての優勝。
日本一速かった本間利彦の
3年5ヵ月ぶりの優勝。
だが、優勝から遠ざかって
いた開発担当の時期に得た
物は多大なるものがあった
だろう。
優勝するのが目的ではない
仕事をしていた時期が長か
ったので、当然「レース」は
できない。ワークスライダー
としてたまにレースにはエン
トリーして走ってはいても。
バトルではなくデータを取る
目的があるから本チャンの時
に「レース」はしていない。
このレース、本間選手はフォー
ムと乗り方を変えている。
理由はリヤトラクションの
扱いと関連しているだろう。
処理の仕方は1986年の世界
チャンピオンのカルロス・ラ
バードに似ている。
トラクションを適正に得なが
らもタイヤを温存する職人技
走法を駆使している。
1993年。本来は本間選手が
ヤマハからWGPに行く筈だ
った。だが、鈴鹿での重大事
故によりWGPフル参戦は断念。
本間選手のマシンとスタッフ
全員が丸々原田哲也選手の為
に運用された。
結果、原田選手は世界チャン
ピオンとなった。
本当ならば、本間選手が世界
チャンピオンになっていただ
ろう。
一発の速さでは本間選手は
WGPでポールポジションを
取ったりしていた程の速さ
だった。
ただ速い人は世界の中で幾人
かいる。
だが、マシン作りをできる
運転手はそうそういない。
本間利彦はその稀有な一人だ。
世界に何人もいない。
1996 GP125 GP250 Rd.7 MINE
力技で上達する
世界一の人が言ってる。
これは「上達」に関する要諦
を話している。取り組み方に
ついて。
まさに正鵠を射る話。
つまり、我武者羅な猪突猛進
の一本調子の力技では上達は
しない。
別な話題だが、本間利彦氏は
ミャンマーに小学校を建てて
地元の子どもたちの教育環境
整備に貢献した。私財を投げ
うって。
レースとは別な話だが、そう
いう人。
勿論、売名行為などではない。
自分の事だけを考えている人は
そういう事はしない。
人を愛しているからやる。
「自分の事しか考えない奴は
自分をも滅ぼす奴だ」(「七人
の侍」島田官兵衛の言葉)。
レースについても、レーシング
スポーツとそれをやる人たちを
愛しているから、いろんな事を
本間利彦氏は語る。
それゆえ、良くないものは良く
ないと言い、良いものを良いと
言う。ズバリと。
それが理解できていない人が
多い。
また、そうした理解できてい
ない人たちは、本間利彦は真
に世界一の能力を持つ稀有な
逸材であるという事を理解し
ていない。
だが、難しい問題もある。
本間氏の事を理解できない事
も、本間氏が語る内容が理解
できない事もそうなのだが、
人には理解できる能力がある
か否かという問題が常につき
まとうからだ。
理解できない人は、まず理解
しようと脳を働かせない。
つまり、一生理解できる事は
訪れない。
これは本間氏に対しての件に
限らず、世の中の全ての事象
や存在についていえる事だ。
世の中には「解る人」とそう
ではない人たちがいる。
そして、「理解」ができない、
その能力を持たない人たちは
圧倒的に多数派なのだ。
今回の本間氏の話の内実は、
日本の伝統武術の道を極める
事にも通じる。
なぜ、日本には例えば剣術
だけでも数百派が存在したの
か。
それは、どんどん新たに新機
軸の術技を武芸者が自ら編み
出してきた歴史があるからだ。
固定的ではなく、流動的であり、
しかもそれは発展性を常に伴っ
ていた。
だからこそ数えきれない技法
と流派が生まれて、活き活き
とした隆盛をみた。
武士がいた時代の武術は生死に
かかわるので、技法の優劣は
まさに文字通り死活問題だった。
下手を踏むと自分がすぐに死ぬ
のだから。これは戦法において
も然り。戦闘は戦技と作戦の
二つから構成されるが、固定的
固着観念のままでいるとまず
負ける。イコール死だ。
ロードレースも命がけである。
下手踏むと簡単に死ぬ。
日本武術がどうしてあのような
技法と流派が多岐に亘るという
歴史的特徴を帯びたのか、今回
の本間氏の話はまさにそれに通
じるものがある。
本間氏が我が一族の一員として、
建暦3年(1213)5月3日に3000騎
を引き連れて鎌倉由比ヶ浜に
駆け付けた時のような、極めて
重要な士魂の在りか、在り様に
ついて垣間見た思いがする。