知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~
個人的には、左の松田聖子の顔よりも右
の蒲池法子の顔のほうが圧倒的に好きで
ある。
一重瞼のほうがヒュンとしててかわいい。
斎藤一の言い分、物凄くよく分かる。
あくまで小説ではあるのだが。
っしょーめ。何が食いてえって、江戸前寿司が一番食い
てえ。
でも、食えない。
住んでるエリア半径700km圏内には存在
しないから。
如何ともし難い。

登城した殿上で、こんな殺傷目的オンリー
の武器を身につけているのかあ。
持ち主は一体どんな大名、旗本だったの
だろうか。痺れる。
この作品も痺れるが、その心の構えに痺れ
る。
しかし、鎧通し、刺刀(さすが)は、私は
日本刀という刀剣類の中でも一番好きだ。
友人には異様に槍が好きな男もいるが、
私は鎧通し、刺刀だなあ。
刀身を見ても容姿がだらしなくノペーッ
とはしておらず、ツーンと冷たく、危険
な空気が漂うその緊張感が良い。
何となく、この一刀はモーラカービング
が長大になった刀のようにも見える気が
する(笑)。
日本刀斬鉄剣の材料を折り返し鍛錬して
製作した私のこの自作小刀(こがたな)は、
とどのつまりはジャパニーズ・プーッコの
ように思えるよ。
ハンドルを樽型にしたら、プーッコその
ものになるんじゃない?
今の朴の木の休め鞘に入れているのでは
なく、実用として使う為の木製樽型ハン
ドルにしたならば。
北欧製プーッコ。
ただ、普通の北欧のプーッコと違う点は、
私の作るナイフ、小刀(こがたな)は、刀工
小林康宏が作る日本刀と同じく、斬鉄剣
であることだ。康清は斬鉄剣作者なり。
ブレードブラックスミスとしての魂は必要
だが、気持ちや念や魂だけでは、斬鉄剣は
作れない。鋼を知り、鐵と対話すること
からだろう。鐵を手ごめにしてやろうと
いうような傲慢な了見では、鐵はいうこと
をきいてはくれない。
よくやるなあとは思うが、自作ものという
のは、見ていてニヤリとする。
友人が送って来てくれた。
いや、かたじけない。
ここの料亭の味がたまらないのよね。
これは嬉しいだす。ありがとう!
反抗に理由なんかあるわきゃねえだろ。
ジミーの髪型は1970〜80年代の日本
限定の「ツッパリカット」とも大きく
違う。
また、文化史としては「ツッパリ」と
「ヤンキー」は全くの別物だ。
単に反抗的な不良少年を今では一括りに
して「ヤンキー」と言うが、それは歴史的
には誤謬認識に基づいている。
往時は関西方言を抜きにすれば、「ヤン
キー」は救いようがない自堕落で頭も悪い
非行少年をニュアンスし、「ツッパリ」は
体制や権力や大人たちや型ハメの社会規範
に反抗する「不良少年」であった。
しかし、いつからか、両者はごっちゃに
なり、識別できぬ世間の人たちの認識が
一般化した。
これは、今の時代が、「おめえたちと俺は
違うんだよ」という独立した意識そのもの
が排除される構造にあるということを意味
している。
もはや、日本には不良少年もツッパリも
いない。
いるのは非行少年たちばかり。
非道に楯突いて身体張って抵抗を体現する
のではなく、ひれ伏しながら愚痴と文句
だけ垂れて、誰かを揶揄する陰口にいそ
しむ。
くっそダセエやつら大集合。
まあ、なんてのか、スタイルもスタンスも違うのよね。不良たちとは。

シマダ イスケさんについて友人と話を
していたら、彼曰く下はニセモンで上が
本物とのことだった(笑)。
シマダ イスケさんに代表されるこの日本
独自の髪型はリーゼントなどとも呼ばれる
が、実は本物のリーゼントではない。
本物は英米風が本物。ジェームズ・ディー
ンやプレスリーみたいなのね。
しかし、リーゼントというのは日本語の
造語なので、リーゼントはシマダ イスケ
さんのこれ、でも合ってるといえば合って
る。
てか、ねらー粘着ウゼえ。
肥溜めに湧くウジムシみてえだ。
これはかなりヤバい。
鳥インフルエンザは大抵は空飛ぶ鳥が運ん
で来るのだが、防ぎようはない。
養鶏場で罹患すると、すべて殺処分とな
る。
養鶏業者も飼料運搬会社も飼料会社も
飼料運搬車製造メーカーも、鶏卵、食鶏
買い入れ業者も大損害を被る。卵や鶏肉も
品薄になり市場価格も上がるので末端ユー
ザーにも影響が出る。
そして、鳥インフルエンザは人間が感染
するタイプもある。
養鶏場でも豚インフルよりも防ぎ難く、
極めて厄介なのだ。野鳥が広めるから。
適切にきちんと食べるのが大切、って事
なんだろなあ。
特に健康のために肥満体質改善でのダイ
エットではなく、美容の為のダイエット
とかいうのは、方向を誤ると恐ろしい事
になりそうだ。
ガリガリの不健康になることをどうして
多くの女性たちは「美」と勘違いするの
だろうか。
自分らしくありたいと、体重も公表して
太るのも気にしないとした池田エライザ
えらいぞ。
剣士必読。
武士が論語を絶対に全員が読んだように、
現代剣士はこれを読むべきだろう。
現代に武士はいないので、あくまで教養
として。
これは、国際連盟事務次長や東京女子大
初代学長を務めた新渡戸稲造が明治33年
(1900)に海外向けに英文で書いた著作を
現代日本語に翻訳したものだ。
日本にはキリスト教圏とは違い、宗教教育
が存在しない。
このことはキリスト教圏の人間たちからす
ると摩訶不思議なのだ。それでどうして
道徳教育ができるのか、と。
日本では、日本人の道徳観は、武家の躾を
以て日本人の躾、礼儀作法、社会規範と
成す、という概念がある。
日本の日本人の礼儀とは、武家礼法に範を
取るのである。
人としての心の清廉さや潔白性、責任感や
自立性、実直さ等も、すべて武士のあり様
を模範にしているのが日本人なのである。
存外、分かりやすいのだ。
日本人において、こ汚く、えげつなく、凡
そ人とは思えない卑怯で非礼な事をするの
は、日本人らしくないのである。
ほぼ、武士の心とは無縁の連中がそうした
ことを為しているという動かし難い現実が
ある。現今のSNSや匿名掲示板などのイン
ターネットでの誹謗中傷や名誉毀損(完全
に法的にも犯罪)を喜んでやっている犯罪者
たちは、無論全く「日本人らしくない」の
である。この現実。
特に、日本刀を手にする剣士たちは、論語
を読解することまでせずとも(本来は教養
として論語は読むべき)、最低限、新渡戸
稲造の『武士道』は読んでおくことが素養
としては有用であろう。
剣は心なり。心正しからずんば、剣また
正しからず、だからだ。
剣士の心法の涵養のためには、新渡戸稲造
の『武士道』を読まれんことを薦めたい。
かく言う私も、初めて読んだのは20代の
末期だった。遅い。
本当はティーンエイジの時に読むほうが
いいだろうなあ。
なぜ江戸期、人はこう言ったのか。
そこなのよね。
「花は桜木、人は武士」
季節は今ではないが、三原で見つけた
カゲロウである。
さて、何という種類のカゲロウでしょうか。