渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

武家屋敷

2020年12月10日 | open



松坂桃李さん結婚記念で主演の時代劇を
観ている。
豊前関前藩(架空)の武士の物語だ。
江戸表から国元に戻るところから始まる。
国政は賄賂と忖度横行の田沼意次の時代
だ。

国元のこの実家の屋敷は、典型的な
150石取程の武士の屋敷を表現している。
300坪ほどだろうか。


幕臣旗本だと150石はどうにか目見得の
旗本クラス(御家人は目見得以下)に
なるが、諸般の国元では上士の格式あたり
に相当する。
江戸期には、土地家屋建物についても
厳格な決まり事があり、家の格式に
よって造作が決められていた。
幕臣旗本御家人も諸藩の武士も屋敷は
すべては拝領屋敷であり、いわば公務員
の官舎のようなものであった。現代の
ような個人的な所有権は存在しない。
そのため、藩主の転封(てんぽう)など
による国替えでの引っ越しはもとより、
主命ひとつですぐに屋敷を召し上げられ
たり拝領したりした。抗議は一切認めら
れない。

豊前関前白鶴城(架空)。
架空の藩なので、CGだ。
よく出来ている。本当にありそうな城だ。
備後三原城は戦国期築城なので天守は無い
が、このCGから天守のみを除去すれば城
の曲輪も三原城によく似ている。
江戸期の三原城も海に面したこのような
景観だったことだろう。
ただし、三原城に浜は無い。すべて海中
埋め立てにより築城されたからだ。
長崎の出島のような埋め立て地に城が
造られたと想像してもらえば近い。
あるいは幕末の江戸湾の海上に浮かぶ
お台場が備後三原城の形態に近い。


江戸期の備後三原城。



白鶴城の城下町。
これはCGだろう。豊前小倉がモデルか。
いや、豊後だから杵築あたりか。



杵築でしたね。モデルの城は(笑)。
慶長の火事で焼失してから天守は再建。
物語の時代には能見松平家が豊後高田
から3万2000石で入封している。
現在の天守は1970年に鉄筋で建築。

広島藩46万5000石浅野家の場合、浅野
松平安芸守が治めた支城である三原城
の領地は3万石の石高だった。
ただ、詳細不明なれども、三原城が数十
の二重櫓などで威風を構えたのは江戸期
福島正則が増築したのではなかろうか。
戦国末期に江戸期様式の三原城があった
とは考えにくいのだが、資料不足により
最初から三原城は江戸幕末の姿だった
ような解説が多くなされている。
城郭研究者のさらなる研究を俟つ。
江戸期の三原城下の人口は1万人。
江戸と同じく半数が武士とその家族、
奉公人だった。
広島藩は蔵米取は無く、下士に至る

まで知行取だった。たとえ50石であろう
と、自分の知行地の領地と領民を持つ
小さな殿様が広島藩浅野家中の武士で
あった。

ちなみに三原城内に住んだ武士たちは
明治9年までにすべての屋敷が新政府
に召し上げられた。
広島藩は「官」軍側であったが、明治
新時代においては、秩禄処分の後は
武士たちはいきなり無職で放り出され
た。屋敷も取り上げられ、どこぞへ
行け、というようなものだ。
多くは警察官になるか軍人になるか、
学識の血脈を生かして教員になるか
の道を選んだが、圧倒的大多数は公務
ではなく自立を目指して新興企業に
就職
するか、自営業の道に進んだ。
そして、自営業での起業においては、
士族のほぼ全域に近い層が商売で
失敗している。
武士は商人としての教育など受けては
おらず、
価値観もあきんどとは異なり、
儲けを
生む金勘定さえろくすっぽでき
ない
堅物であったのだから、事業など
成功
するわけがない。教科書にも出て
くる
「士族の商法」というものであり、
成功を
収めた者たちは少ない。

明治の新時代、一番生活苦の辛酸を
舐めたのは、江戸時代の既得権益を
いきなりはく奪された階級だった。
士族については士族助産の救済措置が
自治体や政府によって採られたが、
士族の困窮は焼け石に水で、やがて
不平士族たちは日本各地で武装蜂起を
して明治政府に対して抵抗運動を展開
した。
士族の武装蜂起は各地で個別撃破され
た後は、立法政治を求める自由民権
運動に繋がって行った。
一方、明治新戸籍によって一般平民に
組み込まれた旧被差別階級層たる被差別
部落民たちは、江戸期の既得権益を
はく奪された後、起業や労働力を売る
ことによって生活を
立てるが、社会的
な差別は江戸期よりも
一層ひどい状態
になって行った。

そして国政選挙と立法主義の時代が
到来してから、水平社を結社し、日本
社会における部落差別廃絶を自らの
手で目指す運動が開始されたのだった。

明治維新により、何が変わったのか。
ただ、国民統合のために「日本語」が
新たに作られ、軍隊の命令意思疎通の
ために標準語と小学校国民教育が
設定されるようになり、教育の機会
均等の道は開かれた。
ただし、これも表向きであり、家庭が
貧しいために義務教育である小学校に
さえろくに通えずに家業の労働に従事
したりした家庭の子どもたちは多かった。
大抵は商家に丁稚に出されたり、女子
などは売春宿に売り飛ばされたりした。
旧武家の士族の家や貧農層の家の女子
たちの多くも女衒が手を引き
売春宿
に連れて行かれたのである。
また、明治以降も、昭和23年までは

日本では家父長制が敷かれていたため、
女性は法律的には無能力者として扱わ
れていた。女性に法的権利は保障されて
いなかったのである。私の世代の親が
生まれた時代の日本はそんな世の中
だったのだ。
大学の進学率も私の時代でも約30%

程であり、私の一回り上の全共闘世代
では18%ほどでしかなく、女性の大学
進学などは数%だった。
私の大学時代の1980年の時点でも、
女性漫才師が相方を指して「こいつ
女のくせに四年制大学行ってるんで
すよ。おかしいやろ、それ」とネタに
していた程だ。それを聴いて観客は
ゲラゲラ笑っているというような
世の中がたった40年前の日本だった。
私の学生時代でも女性の
大学進学率は
非常に低く、女子は短大
に進学するの
がごく当たり前とされていた
し、就職
した企業でも男子に比べて
賃金差別が
ひどかった。学歴差別ではなく性別
差別が現実に形となって賃金に表れて

いたのである。
商業主義の企業とはそういうことをする

場所であった。
男女機会均等法という法律ができて
職業上の男女差別を撤廃するまでは、
女性は「社会の下の者」として扱われ
ていた。それは、つい最近のことだ。
教科書で書かれている事は、日本の
歴史の表面部分しか表記されてはいな
い。

ちなみに、日本で売春宿が法的に廃止
になるのは、
昭和32年(1957年)から
だった。
いつの時代も、社会的弱者を作り出す
ことにより、その人たちを踏みつけて
日本社会は生きながらえて来たのは
厳然たる事実だ。
歴史の真実から目を逸らしてはならない。
特に、未来を創る若者たちは、日本の
真の歴史を真正面から見ることが大切
だ。今の目の前の現在だけがすべての
世界、世界のすべてだと思っていたら
大きく足を踏み外す。


引っ付きくん

2020年12月10日 | open


私のそばから離れない引っ付きくん。

料亭の味

2020年12月10日 | open


めちゃくちゃ美味しい。
ありがとん。



ひよ子

2020年12月10日 | open


ひよ子。
発明した人、天才かと。
福岡ってうまいもん多いよなあ。



浜辺の歌

2020年12月10日 | open


三拍子なんだよ。
昔、これをどうしても4/4拍子で演奏し
ようとする人がいたが、三拍子なんだよ。

歌詞が極めて秀逸な浜辺の歌だが、英語
だとどうかと思ったら、普通の英語だっ
た(笑)。つまらぬただの言葉並び。
シェークスピア調古語でないと、あの
日本語歌詞の美しさは再現できないかも。
言文一致云々以前に、文語調の日本語の
美しき歌詞が英文ではくっそつまらぬ
歌詞になってしまっている。
「夜のとばりの中、二人は渚に足を進め
た」と英文を訳せばよいところ、「夜中、
二人は海岸を歩いた」と訳す程情緒が無い
ものはないが、日本人の詩心は詩歌が日本
に出来てから一千年以上の歴史で培われた
日本人独特の感覚に支えられている。
それは西洋のように即物的な発想ではない
のだ。
月の明かりのことを月影と呼ぶその感覚
などは、西欧人には理解不能である事だ
ろう。
現代西欧人は、秋の虫の声さえもただの
ノイズとしか思わない。
蝉の声を耳にして、何年も地中にいて、
やっと地上に出てきてほんのひと時の儚い
命を叫ぶ蝉たちの生命の証の声に想いを
抱くことはしない。
すべて「騒音」にしか聴こえない脳の働き
なのだ。
こればかりは日本人とは全く異なるので
ある。
「古池や かわず飛び込む 水の音」
など根本的に理解はできない。ただの物理
現象の光景としてしか西洋人は理解しよう
とはしない。
この五七五の調子も理解不能だろう。
まして五七五七七の和歌の約束事の深さや
奥ゆかしさなどは到底理解できない。
ヘーイ、カマーン、ヒャッハー!では到底
無理す。ヘイヨー、ウァッツアップマー
ン、ヒャッハー!は明るいけどね。

日本人は光を光として見ない。
光とはまばゆい輝きであると見る。
そして明かりとは影を生む影であると解
する。単なる輝度、光度の現象としては
見ないである。
湯は「暖かい水=hot water」ではない。
煮湯もあればぬるま湯もある。湯は湯なの
だ。日本語と英語の言葉に現れる識別感
のこの違い。
日本語は美しい。
しかし、日本語の歌詞を英語にすると、
こんなにつまらない言葉の羅列になるの
かというのが「浜辺の歌」の英文訳でよく
解る。
日本語の歌詞は極めて繊細で洗練されて
いる。
あした、である。
日本語は朝だけで沢山の単語がある。
あかつき、しののめ、あさぼらけ、他にも
沢山ある。
そして、朝とは十日十月と書く。
つまり、人の命が宿って生まれるまでの
時の流れを表し、人がこの世にいずる時
が朝であるのだ。それが日本語。外国文字
を流用しながら、この国の人間の独自の
感性と融合させた言葉が日本語。
言葉そのものが日本語は原初から文学的
であるのだ。

浜辺の歌
あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ 忍ばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も

ゆうべ浜辺を もとおれば
昔の人ぞ 忍ばるる
寄する波よ 返す波よ
月の色も 星のかげも

はやちたちまち 波を吹き
赤裳のすそぞ ぬれひしじ
やみし我は すべていえて
浜辺の真砂 まなごいまは


浜辺の歌 At The Shore /Susan Osborn 
英語歌詞付き

浜辺の歌は壮大なる愛の歌。
消された4番の歌詞の秘密は、残された
歌詞に暗喩が隠されていた。

砂浜

2020年12月10日 | open


息子さんが広島から横浜に住んで所帯を
持ったという方から聞いた。
その横浜のお孫さんは、砂浜の砂が瀬戸
内海では金色に近い色であることを信じな
いという。そんな砂浜はありえない、と。

そらねえ。富士山の火山灰が降って関東
ローム層が形成された砂鉄混じりの関東
の浜辺のほうがイレギュラーなんであって
ね。それが世の中の中心ではない。
海砂の本来の色は、沖縄の海や瀬戸内海の
海の砂浜のように真砂色だ。
関東の浜辺の砂は、学校の砂場の砂色だ
が、浜辺としてはそちらのほうが別枠物
だというのは、人は知っておいたほうが
いい。

神奈川県の海。


神奈川県はこの砂浜の色がビーチの色。


関東の海は学校の砂場の砂と同じ色。


沖縄の海。

沖縄の浜。これが日本全国浜辺の砂色だ。
地球の砂浜の色はこれ。瀬戸内海もこの
砂浜の色だ。
関東の砂場色のほうが特殊なのであるか
ら、それを標準だと思ってはいけない。






海辺の砂浜とは、地球においてはこれが
自然な色なのよね。
関東の場合は、地質学的な特殊事情が
あったというわけ。

最近、日本語では「肌色」という呼称が
廃されるようになった。
そらそうだよね。日本人基準で肌色なんて
名称にしてると、黒人や白人の肌の色は
肌の色じゃねえのか?とかいうことにな
る。狭い手前基準で物事を考えたらダメな
のよ。自分が話す方言のみが言葉の基準
だ、全国区だとか勘違いしたりとかね。
国語としては「標準語」があるのだから、
人と意思疎通を図ろうとするならば標準語
をきちんと話す必要がある。そのために
小学1年からわざわざ国語として標準語を
学校で教育を受けているのだから。
学校教育を踏みにじることをしちゃあいけ
ないよ。
浜辺の砂色もそんなもんだね。
関東の砂浜が全世界の地球の基準だとか
思っていたら大間違いだ。
自分の目の前の狭い世界だけがこの世の
すべてだと思い込むのは大きな間違いだ。
狭い了見だと人間自体が小さいままだ。
視野と見聞は海のように広くね。

鳥取県の日本海。


東北の太平洋。


沖縄の浜辺。砂浜の色は東北と同じだ。


九州長崎の砂浜。浜辺の砂色とはこれ。


千葉県九十九里浜。60km位海岸線が続く
びっくら浜が九十九里。実際には1里を4
kmとすると16里程だ。


九十九里浜も砂浜は浜辺色だ。


しかし、邪馬台国の時代の1里ならば短里
なので1里が90m。それでいくと九十九里
浜の長さは666里にもなる。99里どころ
ではない。
さらに別角度から見て、邪馬台国時代の
中国の1里は434mであるので、九十九里
浜の長さをそれで計算すると138里にな
る。
何が言いたいかというと、基準モノサシに
よってモノの表現は変わるということ。
同じモノであるのに。
そのため、人の社会では共通の基準値が
必要になる。これは言葉のみならず尺度と
しても。尺度を表すのも言葉であるので、
つまるところ、言葉だ。
通じない言葉は言葉としての意味が無い。

九十九里浜の名称は、「そんくらいでけえ
浜だっぺ」というような名称なのだろう。
実際にね、浜辺に立つと驚くよ。見えない
はるか先まで砂浜なのだから。延々と。
普段狭い砂浜しか見た事ない人は、機会が
あれば一度九十九里浜を見てみるのもいい
かも。
いや、ほんとに浜辺に出てみると「何こ
れ?」となるから。でけえの。