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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

神の子どもとは・・・

2014-08-31 16:29:07 | 礼拝説教

  2014/8/31礼拝説教
【テーマ】  聖霊に導かれる人
【説教題】 「神の子どもとは・・・」
【聖書箇所】 ローマ8:12-17
  8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

○ クリスチャンというのは「神の子ども」です。子どもというのは、親からかわいがられ、教えられ、躾けられ、普段の交わりから愛をいただいているのです。幼い子どもでも色々なことが自由にできるようですが、それは親の庇護があるからです。私たちも神の子どもということですから、神様の庇護の元、色々なことを自由にさせていただいているのです。

Ⅰ.支配権は神にある
  A.聖霊はエネルギッシュだが
    1.クリスチャンは神の子であり、聖霊が内側に住んでおられます。十字架によって罪の支配から解放され、今やイエス様に従うようになったのですから、 私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 というわけです。
    2.私たちの内におられる聖霊の働きは実にエネルギッシュです。何しろこの宇宙をも創造された神様ですから。だからといって、私たち人間の意志を無視した働きはなさいません。
    3.聖霊のバプテスマはまるでわたしたちを無視して一方的にやってくるエネルギッシュな満たしと思われたりしますが、それは私たちが望んでいるから与えられたのです。望みもせず、心の扉を閉じているなら、受けはしないでしょう。
   
  B.意志を無視されない神様
    1.救いは全くの恵みですが、信仰生活にはかなり私たちの意志が働きます。その意志や信念を神様に委ねることが大事なのです。私たちの思いが世のものに繋がっているなら、私たちは肉体を持って考え、行動するのですから、いくら聖い霊をいただいたとしても、神様の祝福を逃すのです。 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 ということなのです。
    2.ところが、私たちの心というのはなかなか厄介なもので、神様の恵みと祝福を期待しているものの、現実の世の方にも思いが行くという、反対方向のものを同時に求めているような心です。
    3.本来、支配権は神様にあるのですから、単純に神様に委ねて、神様の支配の中に安心して浸りきれば良いのです。神様は私たちの意志を無視して、強制的になさる方ではありません。私たちが自ら委ねる意志を持つのです。

Ⅱ.「アバ、父」と呼ぶことができる
  A.親しく呼びかけることができる
    1.15節に 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。 とありますが、「アバ」とは親しくお父さんに呼びかける言葉です。小学生の時、私は両親を「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼んでいましたが、中学生になると子どもっぽいということで「お父さん」「お母さん」と呼ぶようにしました。が、思春期ですから、それも恥ずかしくて、「父上」「母上」と呼んでいたことがあります。
    2.私たちは祈りで神様に呼びかけます。「神様」と呼びかける人、「お父様」と呼びかける人、「御在天の御父なる神様」と呼びかける人、様々ですが、「おとん」とか「ちゃん」とか気安く呼びかける人はそうはいないようです。
    3.しかし、この 「アバ、父」 は子どもがお父さんに呼びかける一般的な言葉だと言われます。母親を「くそばばあ」と平気で言う時代ですが、神様に対してそのような言い方はできません。でも、親しく呼びかけてよいようにしてくださったのです。
   
  B.イエス様によって神様が私たちの父となった
    1.私たちは本来神様を「父」とは呼べなかったのです。「父」と呼べたのはイエス様だけでした。ところが、イエス様の十字架によって私たちも神の子どもにしていただきました。ですから、私たちもイエス様と同じく「父」と呼べるようになったのです。 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と、聖霊の保障付きです。
    2.お祈りでは、最初に「天のお父様」と父なる神様に呼びかけて、最後に「イエス様のお名前を通してお祈りします」と言いますが、私たちはイエス様の十字架によって祈れるようになったので、「イエス様のお名前によってお祈りします」と言うのです。

Ⅲ.相続人である
  A.永遠を相続する
    1.子どもというのは、たいてい親の財産を相続します。何をも相続することの無かった者、それが母と私と弟でした。父の死後、遺品の整理をしましたが、見事にお金はありません。金庫が二つもあり、開けるのに相当苦労したにもかかわらず、金目のものは何一つありませんでした。名ばかりの「相続人」は相続税もありませんでした。
    2.では、神の子としての「相続人」ならどうでしょうか?  もし子どもであるなら、相続人でもあります とありますから、私たちは皆相続人なのです。
    3.では何を相続するのでしょうか? 私たちがこの地上で大切だと思い込んでいる朽ち果てていくものでは無いようです。神は永遠のお方ですから、私たちも永遠をいただくのです。私たちは永遠のいのちを相続するのです。同時にそれは天国です。
   
  B.キリストの思いを受け継ぐ
    1.相続とは基本的に親の死後、親の財産を受け取るわけですが、神様には死というものはありません。私たちの死後、天国を相続することが私たちに与えられた相続財産かと思われますが、神様は永遠なのです。今、すでに私たちは相続しているとも言えるのです。聖霊が私たちに住んでおられること、私たちの中に神の国が来ていることはまさにそういうことです。
    2.私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 この御言葉でわかるように、私たちはこの地上においてイエス様と苦難を共にしているなら「相続人」なのです。キリストは直系の子どもですから、もちろん父なる神様のものを相続されますが、今や、私たちも「共同相続人」にしていただけるのです。
    3.キリストは人々に福音を伝えられました。言葉によってもですが、愛の行いによってもです。私たちが神の子どもであるということは 使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 の御言葉の実現がまさにそれです。神の子どもとはキリストの証人なのです。

● ザアカイは神の子どもとなり、財産半分を貧しい人に与え、不正に取り立てたところには4倍にして返しました。彼はイエス様と共同相続人となったのです。
  この地上においては無一文であっても、多くの人をイエス様に立ち返らせるために働いた、天に宝を積んだクリスチャンをたくさん知っています。

★ クリスチャンは誰も何の才能も無い、ダメな人間では無いのです。みんな、この地上でどんなにお金を積んでも得ることのできない、永遠のいのち、天国、そして神ご自身(聖霊)をいただいたのです。私たちはそういう「神の子ども」なのです。