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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

喜び踊る人

2014-08-03 18:20:59 | 礼拝説教

2014/8/3S礼拝説教
【テーマ】  迫害の中にある幸い
【説教題】 「喜び踊る人」
【聖書箇所】 マタイ5:10-12
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

○ 皆さんは迫害された経験がありますか? 何かの事情で苦しめられたことを「迫害されている」と言う人もあるようですが、イエス様は 義のために迫害されている者は幸いです と言っておられるので、 義のため の迫害を考えてみます。義というのは神様の性質です。まさに神様のために迫害される人のことがここに書かれています。

Ⅰ.キリスト教迫害は留まらない
  A.聖書時代
    1.キリスト教会は教会誕生後すぐに迫害を受けています。最初はまだキリスト教と呼んでいなかったので、ユダヤ教の一派として、死んだイエスを教祖にしておかしな教えをしているということでユダヤ教徒からの迫害を受けました。
    2.その迫害によってイエス様の弟子、ヤコブやステパノは殺されました。また、迫害をしている側にいたパウロは復活のイエスの声を聞き、回心し、今度はパウロ自身が迫害を受ける側になっています。
                
  B.教会時代
    1.聖書に記録されている時代を越えてその後も迫害は続きました。有名なのはネロ皇帝による迫害です。ローマの大火をクリスチャンのせいにして、クリスチャンを火刑にしました。
    2.日本でも1549年にザビエルが宣教してからクリスチャンの数は急激に増えたのですが、大きな迫害も起こりました。1597年に長崎で宣教師と日本人信者26名が処刑されました。それから明治の初めまで約300年間、迫害は続きました。昭和の戦前・戦中の迫害も大きいものでした

Ⅱ.迫害されている者を幸いと言う理由
  A.天では報いが大きい
    1.迫害は信者やその家族を苦しめ、命を奪う、とても恐ろしいものです。なのに、イエス様は信じられないようなことを言われました。 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。 と。
    2.ここには 天ではあなたがたの報いは大きいから。 と死後の世界における報いのことが言われています。この地上でイエス様のために苦しみを受けるなら、必ず天国ではすごく祝福されますという、まさにあの世での祝福を説かれました。
   
  B.天国の生活はすばらしい
    1.キリスト教は確かにこの地上での祝福よりも死後の天国の祝福を言います。ですから、まず何といっても天国に行くことを勧めるわけです。地獄に行ったのでは元も子もないからです。
    2.いわゆる「あの世」のことを教えているのです。非常に単純に言ってしまうと、この地上で人間的に良い生活をしても永遠の天国でそういう生活は無くて、この地上で貧しく、苦しめられても天国に行けると貧しさも苦しさも無い最高の幸せを得るというわけです。
   
  C.真の信仰は人々の心を変える
    1.迫害はクリスチャンを根絶やしにしようと企まれてなされたものです。確かに迫害の最中には殺されたりしてクリスチャンの数は一時的に減少するものの、その後クリスチャンの数は増えるのです。
    2.迫害を受け殺されていくその姿を見て、キリスト教こそ本物だと思った人がたくさんいます。

Ⅲ.迫害の中で強さをくださる神様
  A.ステパノの殉教
    1.聖書の中で有名な殉教者にステパノがいます。使徒の働き7章に彼の殺されるまでのいきさつが書かれていますが、 使徒7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」 と語るステパノの言葉です。彼にはすでに天国が見えていたのです。
    2.迫害、殉教自体は決して望ましいものではありません。しかし、そのような時にステパノは 使徒7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。 とイエス様のように迫害者に対して恨みや憎しみを語らず死んで行きました。
    3.人は必ず死にますが、どのような死に方を望みますか? まず、迫害を受けて死にたいという人は無いと思います。しかし、もし迫害を受けても、このステパノのように死んでいけたら幸いかなと思います。
   
  B.ペテロの殉教
    1.ペテロはイエス様の十字架を前に、イエス様のことを「知らない」と言って、自分はイエス様の弟子であることを知られないようにしてしまいました。イエス様はその前に彼に ヨハネ13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。 と言われました。その通りになったわけですが、ペテロは鶏の声を聞いた時、愕然としたのです。あのまま、彼は死を迎えなくて良かったです。
    2.ペテロは晩年、ローマに行き、ネロ皇帝の迫害で殉教したと伝えられています。「知らない」と言ったままキリストを捨てて生きる事もできたでしょうが、彼を変えたのはイエス様が誠に救い主であったからです。復活されたからです。

● イエス様は、 マタイ10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。 や、 マタイ16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 と言われました。「いのち」は大切です。そして、永遠のいのちはもっと大切です。
  イエス様やステパノのように、死の間際にも人々の幸せを願っている生き方、死に方は日々、神様を愛した生き方から来るのだと思います。
  私は何人ものクリスチャンの死に際して、恨み言では無く「ありがとう」と言って行かれる姿を見てきました。

★ あなたは自分の人生をどのように生きていきたいですか? 望むように生きていけないこともあります。どんな生き方でも、大事なのは天国に行ける確信をもって喜び踊る人生です。