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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

あなたの信仰は?(岡山志伸師)

2014-08-18 09:20:44 | 礼拝説教

2014/8/17礼拝説教

■ テーマ:メシヤの奇跡と権威
■ 説教題: あなたの信仰は?
■ 聖書箇所:マタイ8:5~13

8:5 イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
8:6 言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
8:7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

<はじめに>
 今回は8章からメッセージを語ります。5章から7章の山上の説教において山に登られたイエス様
は、その山から降りて来られました。そしてイエス様は、三つの奇跡的癒しをされます。一つは、ツァラアトという皮膚病の男性を癒される話しです。そして二つ目が、先ほど読まれた百人隊長のしもべが癒されたという話しです。三つ目は、ペテロのしゅうとの癒しの話しです。今日は、二つ目の百人隊長のしもべの癒しの物語を中心に私たちに与えられた「信仰」について見て参りたいと思います。

<Ⅰ 病を癒されるイエス様>
1.ツァラアトの男
イエス様は山上の説教において、天の御国について語り、天の御国が来たのだと宣言されました。山から降りて来られたイエス様がなさったこと、それは、癒しというみわざでした。天の御国の素晴らしさをメシヤとしてお示しになったのです。この8章からは、イエス様がご自分の権威を立証されるのを見ることが出来ます。ツァラアトに犯された男を癒された話しが出ます。今日の中心的な話しに取り上げませんでしたが、イエス様がなされた癒しのわざについて、少し見ておきたいと思います。(8:1~3)このように、イエスは病人を癒すことによってご自分に与えられた神の奇跡と権威を示されます。そしてそこには、癒しを通して神様の心、ご愛を何よりも示されたのです。先日、アメリカ人の動画でへびにからまれたタカを見つけた人がこの鳥を助けたところを観ました。へびにからまれ死んだかと思われたタカは、その後、へびから解放され突然に元気よく羽ばたいていきました。私は、この人の愛が通じたのだと感動しました。イエス様も愛をもって手を伸ばしてきよめ、癒されています。この病は、汚れのよるものとされていましたが、イエス様はそのような人々に愛の心を示されたのです。

2.百人隊長のしもべの病
ツァラアトの病の男の次は、今日の話しの百人隊長です。彼がイエス様に治して欲しいと懇願した彼のしもべは、ひどい中風にかかっていました。(8:5、6)ところで、百人隊長とは100人の兵士を統率するローマの将校で、軍隊の中でも非常に優秀な人物が任命されるものであったようです。イエス様に近づいたこの百人隊長もまた、ローマ軍の中でも優秀な人物であったと思います。ここで注目すべきことは、彼が異邦人である事です。ツァラアトの病人が、イスラエルの共同体から除外されていたように、異邦人も除外されていました。それなのにイエス様は、この異邦人のしもべに対して、癒しの御手をのべようとされたのです。山上の説教において、天の御国についての教えをされた後のイエス様は神の霊による権威に満たされていました。そして、イエス様が実践的に人々に手を差し伸べられ、行ったことは、世間から除外されているような人々のためへの主の心を表す神の奇跡のみわざだったのです。

<Ⅱ 百人隊長の信仰>
1.信仰のステップ1
 この百人隊長は無力感と絶望感の中に座り込んでいたと思います。息子のように可愛がっていた部下である自分のしもべが、中風で苦しんでいて、目の前の壁に向かって座り込んでしまっていたのでしょう。そんな彼のもとに、イエスという人物が民衆のありとあらゆる病気や患いを癒しているという情報をどこかで耳にしたのかもしれません。同じマタイによる福音書の4:23以下にはイエス様がガリラヤで教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆の病気や患いを癒され、広まった話しがあります。イエス様は百人隊長の信仰に感心されましたが、彼の信仰は、イエス様の知らせを聞いたときに始まりました。イエス様にお会いするために、カペナウムに向けて立ち上がったとき、その信仰もはじめの一歩を踏み出したのです。ローマ10:17に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあるように、信仰のステップ、第一段階は、イエス様に関する信仰について聞く耳を持つことです。神様への信仰には、行きつ戻りつではありますが、何段階かのステップがあります。皆さんは今、どのあたりの信仰を歩いているでしょうか?
 
2.信仰のステップ2
 イエス様にお会いした百人隊長は僕が病気で苦しんでいると訴えます。イエス様は彼に「行って、直してあげよう。」と言われます。(8:7)イエス様に何とかお会いしてしもべが癒されることを願ったところ、イエス様ご自身がそのしもべのところへ行くと言われたのです。
 信仰とは私たちをイエス様に近づけます。私たちは今、このように礼拝堂に集い、讃美を捧げ、御言葉に耳を傾け、礼拝を守っていますが、これは信仰がなければできないことです。信仰がなければ私たちはイエス様に近づくことはできません。イエス様について聞くことにより始められた信仰は、私たちを信仰の確信へと導き、その確信により、私たちはイエス様の御前に近づくことができるのです。そして、イエス様に近づこうとすればするほど、私たちはそれ以前にない信仰へと導かれることでしょう。イエス様との関係が密接になってくるからです。異邦人の百人隊長はまだ十分、神への信仰が分からない人でした。しかし、イエス様のお会いしなければならない決意の内に、ひたすらイエス様のもとを目指したのです。信仰のステップ二段階目は、イエス様のもとに向かうことなのです。

2.信仰のステップ3
 そして、最後のステップ3においては、素晴らしい百人隊長の信仰を見ることになります。(8:8 、9)百人隊長のこの信仰に、イエス様は大変感心されました。なぜ、ここまで感心されたのか?
一つには、百人隊長はここで、実際には僕がまだ癒されていないにも関わらず、また、イエス様が癒して下さるかどうか、癒すことができるかどうか分からないにも関わらず、イエス様の言葉が与えられただけで、もうすでに癒されることを確信していることです。癒された僕の姿を見ているからです。ヘブル人への手紙の11:1以下には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信すること」と記されています。
 二つ目に、百人隊長は、自分自身のことを重ねて、「権威」というものをよく理解していました。軍隊の経験から、イエス様が仰ったことは必ず実現するという、推理からの確信を持っていたのでしょう。まして、神である方ならば、その権威は人の権威を遥かに超えるものであると、イエス様には、その権威が与えられているのだ、イエス様の力は病気よりも強いことを悟っていました。異邦人である百人隊長の理解の深さは、神についてよく知っているイスラエルの人々の信仰よりも素晴らしいというのです。
ここには、百人隊長の神への謙遜な姿がありました。ツァラアトの病の男も謙遜な心を持って、イエス様のみもとに来ました。「お心の一つが欲しい」と願ったのです。百人隊長は、「ただ、おことばを下さい。」と願いました。私たちは、つい「癒して下さい。」という祈りになりがちですが、この二人には、神のみ心が何であるかを求めている姿があると思います。

<Ⅲ 信仰にある事実>
1.「信心」と「信仰」
 イエス様は、「あなたの信じた通りになるように」と言われました。すると、ちょうどその時に「しもべは癒された」のです。(8:13)神の奇跡やみわざは、時間や空間に支配されないところで働くものだと分かりますが、信仰は、神が与える神の真実と事実を、実際に体験することが出来るものです。
日本語の「信仰」という言葉は聖書翻訳語として有名ですが、昔の日本においては、「信心」という言葉の方が優勢だったようです。ある牧師はこの「信心」、「信仰」の一番の問題は、事実との関係にあると言いました。よく「鰯の頭も信心から」と言います。鰯の頭のようなものでも、信じ始めると、神にも仏にもなると言うわけです。しかし、鰯の頭をいくら神のように思っても、事実としては、鰯の頭に過ぎないのです。一枚の画像がここにあります。「竜王さんのクス」という600年からな古い木です。徳島市の城跡にあって、私や弟は小さい頃、よくこの木が面白くて、登ったりして遊んでいました。その頃はただの面白い古い木でしかなかったのですが、現在はロープで囲いがしてあり、今や手を合わせて拝むようなイメージとなっています。人の心とはそんなところがあります。しかし、事実は、ただの古い木です。これらは、神でも何でもないものである、これが事実なのです。
しかし、今日のこの百人隊長は、神である方が言われた本物の神の癒しの事実を手にしたのです。聖書のまことの神には、神にしか出来ない素晴らしい体験がそこにあります。キリスト者は、この神にしか与えることが出来ない信仰の「事実」を体験することが出来るのです。
  
2.事実へと進む信仰へ
 キリスト教の信じるという姿勢は、「信心」よりもどちらかというと「信仰」であると言われます。信仰は、心の在り方や単に心の中で作り上げることではなく、信じ仰ぐという言葉から、この天地万物を創造された方を仰ぐというものです。
聖書の神様は、愛であり、善であり、義である善きお方です。人類の歴史の中で事実、生きて働かれる方だと聖書は示します。救いに導きたい愛である神の存在が事実であるということを、私たちに知らせたい方なのです。この神様を仰いで、信仰の土台を頂きましょう。この神様は私たちの「信仰」を上よりの力によって、引き上げたい方です。漠然とした信心ではなく、信仰にある神の愛の事実、神の奇跡の事実、神のみわざの事実を受け取る階段を上り進みましょう。
また、イエス様はただ百人隊長の信仰をほめただけで終わらずに、非常に厳しい言葉を続けられます。(8:11~12)ここにある「御国の子ら」とは、生まれつき御国を相続する権利を持っている意味があるそうですが、アブラハムの子孫である神の選民、イスラエル民族の中にあっても、イエス様への信仰がなければ、暗闇に放り出され、歯ぎしりすることになるのです。逆に言えば、神の恵みは、民族を超えたすべての人々に注がれているということです。天国の一員となるためには、異邦人であることや、民族、人種は関係ないことに感謝したいと思います。

<結び>
 私たちの信仰は、まだまだと言える段階かもしれません。しかし、信仰の限界を自分で決めるのはやめたいと思います。そして、イエス様のご存在を聞いたなら、イエス様に近づき、神にある見えないところの信仰の真実と神が与える事実を受け取って、私たちの信仰を引き上げて頂き、大いなる神を体験していきたいと思います。