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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私も7000人の一人かも

2015-08-30 15:16:16 | 礼拝説教
2015/8/30礼拝説教
【テーマ】  神の恵みの選び
【説教題】 「私も7000人の一人かも」
【聖書箇所】 ローマ11:1-10
11:1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。
11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
11:6 もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
11:7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
11:8 こう書かれているとおりです。
  「神は、彼らに鈍い心と
  見えない目と聞こえない耳を与えられた。
  今日に至るまで。」
11:9 ダビデもこう言います。
  「彼らの食卓は、彼らにとって
  わなとなり、網となり、
  つまずきとなり、報いとなれ。
11:10 その目はくらんで見えなくなり、
  その背はいつまでもかがんでおれ。」

○ 10章のところですでに語られたように、神様は決してイスラエルを見捨てておられません。そのことはイスラエル人にとってどれ程の福音でしょうか。

Ⅰ.イスラエルは見捨てられていない
A.7000人が残してある
1.パウロが引用するエリヤの箇所は、Ⅰ列王記19章のところです。この話はその前18章、あるいはもう少し前から見てみないとわからないところです。
  イスラエルのアハブ王は外国の妃イゼベルを迎え、彼女の偶像礼拝に従うようになってしまいました。真の神への信仰が薄れ、預言者の言葉も聞かなくなったのです。預言者エリヤはそのアハブに悔い改めるように迫りましたが、一向に聞き入れず、神は水の飢饉を与えました。3年間雨が無く、人々が遂に困りはてた時、どちらの神が正しいか決着をつける時が来ました。
  聖書の神の預言者はエリヤ一人、それに対して偶像の神の預言者は850人です。しかし、祭壇に天から火を下すというその対決は見事エリヤに勝利をもたらしました。聖書の神がまことの神だということが示されると雨も降り飢饉は収まったのです。
  ところが、この闘いのことを聞いたイゼベルが怒り、エリヤを殺そうとしたため、エリヤは逃げて、燃え尽きたようになってしまいます。そうした時に神は Ⅰ列王19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。 と言われたのです。
2.エリヤと偶像の神の預言者との対決の時に登場しなかった7000人ですが、決して彼らは信仰を無くしていたわけでは無いのです。エリヤはすべての信仰者が殺されて、自分だけが残ったと思っていたかも知れませんが、そうではなかったのです。神は7000人も残しておられたのです。

B.何もできなかった7000人だが
1.私たちが、この7000人の立場だったらどうでしょうか? イスラエルの王様が、その妃イゼベルによって変わってしまい、預言者たちを殺してしまい、逃げるしかないのではないでしょうか。そして、神様のあわれみで殺されずにすんだということはなんと感謝でしょう。
2.エリヤのように大きな働きも出来なかったのですが、それでも彼ら7000人は神様によって生かされたのです。殺された預言者は先に神の元に行くだけです。残された者はこの地上での仕事が与えられているのです。7000人は神様から地上での働きのために選ばれたのです。
3.真の神を信じる者が全くいなくなったと思ったエリヤですが、神様は7000人も残していてくださったのです。彼らは信仰を持っていて、今までは何の働きもできなかったかも知れませんが、彼らは後に信仰を伝える大事な7000人だったのです。同じく、パウロの時代にもユダヤ人みんなが不信仰というわけではないのです。

Ⅱ.恵みの選び
A.選び
1.パウロは自分をエリヤのような人物と思ったでしょうか? それとも殺されずにかくまわれた7000人の一人のように思ったでしょうか? 人は目だつ働き、人に認められるような働きをしたいと思うものです。エリヤか7000人の一人かというとエリヤを望むものです。
2.ところが、神様の選びというのはエリヤも7000人も同じです。神様はすべての人を特別に選んでくださっています。7000人はエリヤにはわからなかった人達です。しかし、神様には選ばれていたのです。何のためにでしょうか? 神様の働きのためです。人はみんな違うように造られており、それぞれの用い方がされるのです。

B.恵み
1.パウロはそういう神様の選びを 恵みの選び と呼びました。恵みです。エリヤにしても7000人にしても、神様の目から見ればなんら変わらない「罪人」です。そして、みんな大切な「信仰者」なのです。
2.地獄に行くしかないような者達を選ばれたのですから 恵みの選び なのです。恵みです。福音です。エリヤは何か「行い」をしたでしょうか? 確かにバアルの預言者たちとの対決というすごいことをしたと思います。もちろんそのために彼は神様から選ばれた器です。しかし、彼が火を下すことは出来なかったのです。それをしてくださったのは神様です。
3.7000人は文字通り何もできず、ただかくまわれ、援助者の差し入れで生き延びた人です。何の行いもありません。とすればまさに「恵み」でしかあり得ません。救いは「恵み」です。

Ⅲ.恵みによって救われる
A.信仰によって救われる
1.ユダヤ人はみんな選ばれた民なのに、選ばれたことを誇り、自分たちの行いで救いを得たかのように振る舞ったのです。それは「信仰」ではありません。信仰によらねば救われません。誰が救われ、誰が救われないか、そんなことは誰にもわかりません。
2.どんなにキリストを迫害していても、パウロ自身、神様の恵みによって救われたのです。彼の働きはエリヤのようになりましたが、その前はイゼベルのような活動をしていたのです。そんなパウロが救われたのは恵みによるのです。神の恵みを受け止めた時信仰がやってくるのです。

B.選ばれた人がまだまだいる
1.パウロが頑ななユダヤ人を嘆き、8-10節、旧約聖書の言葉を引用して語ります。せっかく神様がユダヤ人を選んでくださったのに、自分たちの行いを誇り、恵みによるキリストの救いをないがしろにしたことを嘆くのです。
2.しかし、パウロはそういうかつての迫害者であった自分と同じようなユダヤ人の中にも「7000人」がいる事を信じているのです。
3.私たちは「私の回りには神を信じない人ばかりです」と言いやすくなりますが、エリヤが7000人のことを知らなかったように、私たちの回りにも7000人が残されているのです。

★ イスラエルには望みが無くなったのではなく、神様は信仰を失っていない人々を選んでおられる。同じく、私たちの家族・親族の中にも恵みの選びを受ける人がいるのです。


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