土本典昭監督の 「 みなまた日記 甦える魂を訪ねて 」 を観る。
1996年作成 2004年改訂
1994年当時の水俣病認定患者総数は、1080人であった。
土本監督と奥さんの基子さんは、水俣の旅館に泊まりこみ、ご遺影を集め始める。
この映画は、ご遺影500柱を集めた1年間の、水俣の記録である。
ETV特集 「 ふるさと`水俣´に生きる 次世代からのメッセージ 」 より18年ほど前の記録だ。
( 2014年7月9日の 「 苦海浄土 わが水俣病 」 参照 )
鎮魂の儀式として、1994年11月6日に第1回 「 火のまつり 」 が行われる。
以前にも書いたが、この会場は水俣の海の汚染が酷かった所を埋め立てた場所だ。
ドラム缶に大量の魚を詰め込み、累々と埋め立てたヘドロの上にある。
今はその上を、きれいな土が覆っている。
松明1200本が灯され、白装束に紫の布で髪をおおった巫女姿の杉本栄子さんが、
自らを魚 ( いお ) に託して祈りの言葉を述べる。
おどんが 魚 ( いお ) じゃった時の話ばい
ここは昔 海じゃった
おどま ( 魚 ) たちは そん藻の中で生まれ
こっちのこう 瀬の中で育って
細 ( こま ) んか魚 ( いお ) どんたちを追いかけ
太か魚どんたちから追われ
毎日 仲間どんたちと ようここで 遊びよった
ひとが来らすとば 待って
ひとに喜ばれれば ホッとして
まいにち 賑やかだったばい
そげんそげん ここはお母 ( か ) さんの懐のごと ( 如き )
所じゃったもんな
良か海じゃった
良か海じゃったもん
急にひとが 来られんごつなったち思ったら
( 魚の ) 仲間どんたちが あっちもこっちも
どこもここも 浮いた
まあ何が起きたじゃろかち
おどま何も分らんかった
逃げようにも逃げられず
逃ぐるところも無かったもんな
誰に訴えることも 文句をいうことも
出来んだったばい
いま生きとるもんば 大切にするー
そは一番たい
じゃばってん 昔生きとったものも
思い出してくれんなー
ひとはひと 魚は魚とち
思うとらすもんの
一杯おらすばってんー
それが ほんな ( 本当の ) こつじゃろか
みんな目に見えん 細 ( こま )かいもんから
とてつもなか 太かもんまで
お互いに生かし 生かされながら
みんな繋がっとっとばい
あんたの立っとらす そこん・・・そこの
足下に おどん ( 魚 ) が埋められとっと
知っとっとかな
知ってもらいたか
おどんも 早う土になろうごたっと
ばってんまだ なり切れんと
納得できたとき 土になろうち思う
納得でけん時は 化けてでるかも
知れんとばい
おっどま 「 ごめんなさい 」 ち言うて
もらうためじゃなか
「 あんたたち あんたたちの お陰さまです 」・・・ち
思い出してもらいたか
そうそう・・・祈りの言葉は
「 ありがとう 」 たい
「 ありがとう 」 ち言うてもらいたか
まこて 今日はよかったーみんな
こげんして来てくれらったで
嬉しかった
ほんなこつ 今日は嬉しかった
こげん一杯 灯りをつけてもろうて
なんて今日は 良か日じゃったろか
ほんなこつ 嬉しかった
水俣出身のもんは みんな
帰ってください
みなまたに 帰ってきてください
最後の三行は、栄子さんのアドリブだそうです。
その他にも鎮魂の祈りとして、喜納昌吉&チャンプルーズと水俣の緒方さんとの
コンサートによるコラボや大倉正之助さんの大つづみの演奏などがあり、
とても見応えのあるものだった。
沖縄の人たちも、水俣の人たちも、本当に踊りが大好きなのだ。
埋立地には、住民が作った多くの石仏が建立されている。
そのどれもが個性的で味わいがあるので、実物を見たくなった。
また、胎児性水俣病の坂本しのぶさんたちと若者たちとの、演劇の練習が行われていた。
最後に、語り部である浜元さんの次の言葉が心に残った。
「 胎児性患者も恋がしたいし、結婚もしたい。けど女性は結婚できないし、
男性もかろうじて結婚できたのはごくごくわずかだ 」
( 細部に間違いがありましたら、お赦しください )
1996年作成 2004年改訂
1994年当時の水俣病認定患者総数は、1080人であった。
土本監督と奥さんの基子さんは、水俣の旅館に泊まりこみ、ご遺影を集め始める。
この映画は、ご遺影500柱を集めた1年間の、水俣の記録である。
ETV特集 「 ふるさと`水俣´に生きる 次世代からのメッセージ 」 より18年ほど前の記録だ。
( 2014年7月9日の 「 苦海浄土 わが水俣病 」 参照 )
鎮魂の儀式として、1994年11月6日に第1回 「 火のまつり 」 が行われる。
以前にも書いたが、この会場は水俣の海の汚染が酷かった所を埋め立てた場所だ。
ドラム缶に大量の魚を詰め込み、累々と埋め立てたヘドロの上にある。
今はその上を、きれいな土が覆っている。
松明1200本が灯され、白装束に紫の布で髪をおおった巫女姿の杉本栄子さんが、
自らを魚 ( いお ) に託して祈りの言葉を述べる。
おどんが 魚 ( いお ) じゃった時の話ばい
ここは昔 海じゃった
おどま ( 魚 ) たちは そん藻の中で生まれ
こっちのこう 瀬の中で育って
細 ( こま ) んか魚 ( いお ) どんたちを追いかけ
太か魚どんたちから追われ
毎日 仲間どんたちと ようここで 遊びよった
ひとが来らすとば 待って
ひとに喜ばれれば ホッとして
まいにち 賑やかだったばい
そげんそげん ここはお母 ( か ) さんの懐のごと ( 如き )
所じゃったもんな
良か海じゃった
良か海じゃったもん
急にひとが 来られんごつなったち思ったら
( 魚の ) 仲間どんたちが あっちもこっちも
どこもここも 浮いた
まあ何が起きたじゃろかち
おどま何も分らんかった
逃げようにも逃げられず
逃ぐるところも無かったもんな
誰に訴えることも 文句をいうことも
出来んだったばい
いま生きとるもんば 大切にするー
そは一番たい
じゃばってん 昔生きとったものも
思い出してくれんなー
ひとはひと 魚は魚とち
思うとらすもんの
一杯おらすばってんー
それが ほんな ( 本当の ) こつじゃろか
みんな目に見えん 細 ( こま )かいもんから
とてつもなか 太かもんまで
お互いに生かし 生かされながら
みんな繋がっとっとばい
あんたの立っとらす そこん・・・そこの
足下に おどん ( 魚 ) が埋められとっと
知っとっとかな
知ってもらいたか
おどんも 早う土になろうごたっと
ばってんまだ なり切れんと
納得できたとき 土になろうち思う
納得でけん時は 化けてでるかも
知れんとばい
おっどま 「 ごめんなさい 」 ち言うて
もらうためじゃなか
「 あんたたち あんたたちの お陰さまです 」・・・ち
思い出してもらいたか
そうそう・・・祈りの言葉は
「 ありがとう 」 たい
「 ありがとう 」 ち言うてもらいたか
まこて 今日はよかったーみんな
こげんして来てくれらったで
嬉しかった
ほんなこつ 今日は嬉しかった
こげん一杯 灯りをつけてもろうて
なんて今日は 良か日じゃったろか
ほんなこつ 嬉しかった
水俣出身のもんは みんな
帰ってください
みなまたに 帰ってきてください
最後の三行は、栄子さんのアドリブだそうです。
その他にも鎮魂の祈りとして、喜納昌吉&チャンプルーズと水俣の緒方さんとの
コンサートによるコラボや大倉正之助さんの大つづみの演奏などがあり、
とても見応えのあるものだった。
沖縄の人たちも、水俣の人たちも、本当に踊りが大好きなのだ。
埋立地には、住民が作った多くの石仏が建立されている。
そのどれもが個性的で味わいがあるので、実物を見たくなった。
また、胎児性水俣病の坂本しのぶさんたちと若者たちとの、演劇の練習が行われていた。
最後に、語り部である浜元さんの次の言葉が心に残った。
「 胎児性患者も恋がしたいし、結婚もしたい。けど女性は結婚できないし、
男性もかろうじて結婚できたのはごくごくわずかだ 」
( 細部に間違いがありましたら、お赦しください )
