今日のうた

思いつくままに書いています

秋の一日

2022-12-11 09:28:45 | ⑤エッセーと物語
11月13日(日)の明治神宮は天気の崩れもなく賑わっていた。
菊花展が開かれ、大安ということもあり結婚式や七五三、
そしてお宮参りに参列する人たちが列をなしていた。
外国人観光客もかなり戻ってきたようだ。

このコロナ禍での3年間を私は人一倍気をつけてきたつもりだ。
買い物は週1回のまとめ買いをし、通院以外は極力家にいた。
外食も感染者数が減った時期に天せいろを食べたきりだ。
だが今回はどうしても参列したかった。
娘たちは感染者の多い地域で暮らしている。
感染者数が急激に増えている今の状況を考えると、この機を
逸したらもう孫には会えないかもしれないという焦りがあった。

孫の七五三はどこに行っても人・人・人の山で、待たされること
待たされること。
写真室ではマスクの痕がつくので取って待つよう指示された。
いつもはあんなに神経質になっているのに、簡単にマスクを
外してしまった。
食事は失礼して帰ってきたのだが、電車の中で咳込んでしまい、
慌ててバッグに付けた"喘息バッジ”を見えるようにする。

11月17日はブログをアップしたくらいだからいつも通りだ。
11月18日(金)になると熱が出てきた。慌てて新型コロナの潜伏期間を
調べ、買い置きしてある抗原検査キットを取り出す。(1980円 高い!)
これは厚労省のHPに正規のキットが買える薬局として、
いつも利用している院外薬局が載っていたので買っておいたものだ。
だが熱のある身に説明書は分かりづらい。
夫と悪戦苦闘の末、陰性結果が出たので家にあるアセトアミノフェンの
解熱剤を服用し、様子をみることにする。

11月19日(土)になっても熱は上がる一方で、38度台になった。
いつもの病院の発熱外来に連れて行ってもらう。
一人暮らしだったらどうなっていただろう。
医師の特別な許可がない限りPCR検査は行わないそうで、
ここでも抗原検査を受け、陰性判定だった。
アセトアミノフェンの解熱剤と去痰剤を処方されて帰宅する。

11月20日(日)の午後になると熱が39度台になったので、
同じ病院の救急外来に電話をして診てもらうことにする。
ここで初めてPCR検査が行われる。
PCR検査を2回行ったが、検査結果が出るまで隔離病棟に
入院となった。

隔離病棟は想像以上の物々しさで、家から持ってきたものは
病室に入れられず、病室で使ったものを室外に出してはいけないと言われた。
入院の際、「この入院期間中に延命治療を望みますか」との
質問があった。こんなことは初めてだ。
「望みません」と答えたが後になって、もう一人の孫の入試が終わる
来年の春まではどんなことがあっても生きたいと強く思った。
完全防護服の専任看護師が使い捨て食器に盛った食事を運んでくるが
食欲は全くなし。

次の日になりPCR検査が陰性ということで個室に移される。
冷蔵庫よりも大きな機械とダクトがあり、これがウィルスを
外部に出さないための減圧機なのかと納得。
だが作動はしていないとのこと。
作動するとすごい音がするそうだ。部屋全体の圧を下げるのだから
かなりのパワーなのだろう。

X線検査、CT検査、血液検査などの結果、病名は気管支喘息と気管支肺炎
ということで、抗生物質の点滴とネブライザーをすることになる。
とにかく咳が酷く、腹筋を痛めているので寝たまま咳ができない。
ベッドに起き上がり、なるべく負担がかからない体勢で咳をする。
結局、咳は延々と続き一睡もできない。個室でよかった。
だがコロナ患者が出たのかこの部屋も1泊で出され、四人部屋に移される。
咳をする患者はどこでも嫌われるようで、ここでも1、2時間で移動させられ
て別の個室に移る。私の咳にクレームが付いたようだ。
この個室で更に9泊することになるが、計11日間の抗生物質の
点滴で熱が下がり、咳も収まりつつある。

主治医によると私は気管支拡張症で、何でもない細菌でも炎症を
起こしてしまうとのこと。
いつもは町の外れに夫と二人暮らしているのだが、今回は都会の
細菌にやられたようだ。
「もう都会に行くのはやめます」と言うと、
「買い物でも危ない。人が誰でも持っている細菌でも炎症を起こす。
 そしてこれは繰り返す」とのこと。
これからは町の外れで、夫以外の人とは出来るだけ会わずに暮らしていく
しかないのか。
入院中は面会ができず、家に帰ってくると夫は鬱っぽくなっていた。

退院後に診察明細書を見ると「院内トリアージ実施料」なるものが
ある。私もトリアージされたのだ。今回はブラックではなかったが、
次回は分からない。
日本には高熱が出ても自宅療養を強いられている人が大勢いるのだ。
退院して11日が経つが、いまだ半病人の生活を送っている。
今回のダメージはこれまでの最大級で急に老い込み、タイムリミットが
ぐっと近づいたと感じた。
もう外出することも人と会うこともないのだから、洋服も装飾品も
要らない。残された時間で終活をしなければ・・・。

2週間ぶりにお風呂に入るとお腹周りがぺっこり凹んでいた。
半月で54キロあった体重が50キロになっている。
もし最初から50キロだったら46キロになってしまっていただろう。
それでは戦えなかったかもしれない。
私のために贅肉が犠牲になってくれたのだ。
主治医の話では、私が夏によく歩いていたので運動の貯金があって
助かったとのこと。
運動貯金とお腹周りの贅肉貯金が救ってくれたのだ。
それと大袈裟だと言われても抗原検査キットと酸素缶を
買っておいて助かった。
体が弱い人間だからこそ最悪を想定して準備し、生きてきた。
それで72歳まで生きてこられたのだ。

入院中も今も音楽に救われている。音楽を聴いていると何も考えないで済む。
病んだ体も音楽に反応する。

それにしても今回のことで一番驚いたのは、明治神宮の千歳飴の中に
教育勅語が入っていたことだ。
日本はどこに向かっているのだろう。

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