世の中の全てを「モノ」と「コト」に分けて考えてみる。
モノとは物質であり,それは確かにそこにあるものであって,実在である。
コトとは現象などのことで,情報である。
モノとコトの大きな違いは複製が容易かどうかである。
全く同じ性質のモノをコピーしてもう一つ作り出すのはある意味非常に難しい。例えば目の前の石と同じものをもう一つ作るには,材料が必要である。また,材料があったとしても加工するための道具も必要である。
それに対し,情報をコピーするのはモノの複製に比べ,きわめて容易である。
(注記1:コピーするという言葉の意味をはっきりさせねばここで述べたことはほとんど無意味であるが,僕自身,その意味がはっきりつかめておらず,議論が混乱している気がしてならない。ここでいうコピーするという動作は,一つの石を両手でつかみ,手をスーッと左右に広げるとそれぞれの手にもとと同じ石が一つずつ握られている,というマジックのような行為をイメージしている。それに対し,材料を加工してそっくりな石を作るというのはコピーとは異なる操作として区別したいと思うのである。)
ただ,モノとコトが果たして本当に対立する概念かというと,その点は微妙である。
モノだのコトだのを区別するのは我々人間のような知覚を持った生物である。我々は触覚や視覚を通してモノがそこにあるというコトを知る。つまり,モノはコトに変換されて我々に認識されるわけである。かつて Wheeler が "It from bit" なるフレーズを唱えたというが,それはこういうことを言い表したものなのだろうか。
コトをコピーするのは容易だといったが,情報はモノによって伝えられるため,情報を「書きつける」モノが他にないとコピーができない状況もある。例えば紙に文字で書かれた文章をコピーするには,それを書き写すことのできる媒体が必要である。もっとも,人間の脳のように紙に書かれた文字とは別の状態に変換して保持する方法もあるが,いずれにせよ脳という,もとの紙とは別の記憶装置が必要となることに違いはない。
ところで,物理学においてはエネルギーという概念が重要である。エネルギーはモノとコトのいずれであろうか。
エネルギーは保存すると考えられている。そうすると,あるエネルギーを複製して増やすということは無から有を作ることとなり,エネルギー保存則に矛盾する。こうした保存則というものはコトではなくモノに属する性質と思われるので,エネルギーはモノであるということになる。Einstein が見出した質量とエネルギーの等価性はこの見解を裏付けているといえるかもしれない。
(注記2:情報はコピーが容易だと述べたが,そうすると仮に情報に保存則があったとすると破たんするかというとそうでもないだろう。ある情報をコピーして増やしたとしても,もとのものとは異なる新たな情報が生み出されたり,もとの情報が失われたわけではないから「情報量」は増えも減りもしない。したがって,コトの世界にも保存則を導入できる可能性はある。)
その一方で,運動エネルギーや熱エネルギーなどはモノがある状態にあるという指標であって,コトの一種ととらえることもできよう。つまり,エネルギーはコトであるようにも思われるのである。
このように,無理に世の中のすべてをモノとコトのどちらかに分類しようとすると途端に困ったことになってしまう。しかし,エネルギーはモノとコトの二面性を持つということにしてしまえばよい。あるいは,それと少し異なるとらえ方として,エネルギーはモノとコトを結びつける中間物と考えると,次のような転換が可能かもしれないという妄想に到達する:
モノ(物質)←→ エネルギー ←→ コト(情報)
実はこれは妄想どころかうんと真面目な話であり,情報とエネルギーとの間の変換は科学技術の最先端の研究テーマとして情報理論や物理学の専門家によって実際に研究されている。日本にもこの方面で重要な成果を出した研究グループがあるほどである。
ところで,モノはそこにあるからこそさまざまなコトが起こるのだと我々は信じているのだろうが,モノに関する理論としての物理学は本当にモノそのものを取り扱っているのだろうか。モノがもっている様々な性質やモノ同士が繰り広げる現象は,知覚による測定を通じて観測される。つまり我々が実際に取り扱っているのはコトであり,物理学の対象も結局のところコトでしかないように思われる。
量子力学においては電子や光が粒子と波動の二つの側面を持つということが理論の基礎をなしているが,粒子性はモノに所属する性質であり,波動性はコトに所属する性質であると考えれば,ここで論じた観点は量子力学にもそのまま適用できそうにも思われる。また,熱の理論において,かつて熱は物質であるというフロギストン説が唱えられたが,それが否定されて熱は物質ではなくエネルギーの一形態であるという認識に至ったことは,モノから中間物であるエネルギーなるものへと熱の正体が移行したととらえることができる。こう考えると,上に述べたモノ,エネルギー,コトの図式は熱の概念の変遷の歴史を整理するのにも役立つ。
モノとコトとに分けるという二分法は大雑把すぎる物事のとらえ方かもしれないが,妄想をたくましくしてあれこれ考えてみると既存の理論をうまく整理できるような気がしてなかなか楽しいものである。
モノとは物質であり,それは確かにそこにあるものであって,実在である。
コトとは現象などのことで,情報である。
モノとコトの大きな違いは複製が容易かどうかである。
全く同じ性質のモノをコピーしてもう一つ作り出すのはある意味非常に難しい。例えば目の前の石と同じものをもう一つ作るには,材料が必要である。また,材料があったとしても加工するための道具も必要である。
それに対し,情報をコピーするのはモノの複製に比べ,きわめて容易である。
(注記1:コピーするという言葉の意味をはっきりさせねばここで述べたことはほとんど無意味であるが,僕自身,その意味がはっきりつかめておらず,議論が混乱している気がしてならない。ここでいうコピーするという動作は,一つの石を両手でつかみ,手をスーッと左右に広げるとそれぞれの手にもとと同じ石が一つずつ握られている,というマジックのような行為をイメージしている。それに対し,材料を加工してそっくりな石を作るというのはコピーとは異なる操作として区別したいと思うのである。)
ただ,モノとコトが果たして本当に対立する概念かというと,その点は微妙である。
モノだのコトだのを区別するのは我々人間のような知覚を持った生物である。我々は触覚や視覚を通してモノがそこにあるというコトを知る。つまり,モノはコトに変換されて我々に認識されるわけである。かつて Wheeler が "It from bit" なるフレーズを唱えたというが,それはこういうことを言い表したものなのだろうか。
コトをコピーするのは容易だといったが,情報はモノによって伝えられるため,情報を「書きつける」モノが他にないとコピーができない状況もある。例えば紙に文字で書かれた文章をコピーするには,それを書き写すことのできる媒体が必要である。もっとも,人間の脳のように紙に書かれた文字とは別の状態に変換して保持する方法もあるが,いずれにせよ脳という,もとの紙とは別の記憶装置が必要となることに違いはない。
ところで,物理学においてはエネルギーという概念が重要である。エネルギーはモノとコトのいずれであろうか。
エネルギーは保存すると考えられている。そうすると,あるエネルギーを複製して増やすということは無から有を作ることとなり,エネルギー保存則に矛盾する。こうした保存則というものはコトではなくモノに属する性質と思われるので,エネルギーはモノであるということになる。Einstein が見出した質量とエネルギーの等価性はこの見解を裏付けているといえるかもしれない。
(注記2:情報はコピーが容易だと述べたが,そうすると仮に情報に保存則があったとすると破たんするかというとそうでもないだろう。ある情報をコピーして増やしたとしても,もとのものとは異なる新たな情報が生み出されたり,もとの情報が失われたわけではないから「情報量」は増えも減りもしない。したがって,コトの世界にも保存則を導入できる可能性はある。)
その一方で,運動エネルギーや熱エネルギーなどはモノがある状態にあるという指標であって,コトの一種ととらえることもできよう。つまり,エネルギーはコトであるようにも思われるのである。
このように,無理に世の中のすべてをモノとコトのどちらかに分類しようとすると途端に困ったことになってしまう。しかし,エネルギーはモノとコトの二面性を持つということにしてしまえばよい。あるいは,それと少し異なるとらえ方として,エネルギーはモノとコトを結びつける中間物と考えると,次のような転換が可能かもしれないという妄想に到達する:
モノ(物質)←→ エネルギー ←→ コト(情報)
実はこれは妄想どころかうんと真面目な話であり,情報とエネルギーとの間の変換は科学技術の最先端の研究テーマとして情報理論や物理学の専門家によって実際に研究されている。日本にもこの方面で重要な成果を出した研究グループがあるほどである。
ところで,モノはそこにあるからこそさまざまなコトが起こるのだと我々は信じているのだろうが,モノに関する理論としての物理学は本当にモノそのものを取り扱っているのだろうか。モノがもっている様々な性質やモノ同士が繰り広げる現象は,知覚による測定を通じて観測される。つまり我々が実際に取り扱っているのはコトであり,物理学の対象も結局のところコトでしかないように思われる。
量子力学においては電子や光が粒子と波動の二つの側面を持つということが理論の基礎をなしているが,粒子性はモノに所属する性質であり,波動性はコトに所属する性質であると考えれば,ここで論じた観点は量子力学にもそのまま適用できそうにも思われる。また,熱の理論において,かつて熱は物質であるというフロギストン説が唱えられたが,それが否定されて熱は物質ではなくエネルギーの一形態であるという認識に至ったことは,モノから中間物であるエネルギーなるものへと熱の正体が移行したととらえることができる。こう考えると,上に述べたモノ,エネルギー,コトの図式は熱の概念の変遷の歴史を整理するのにも役立つ。
モノとコトとに分けるという二分法は大雑把すぎる物事のとらえ方かもしれないが,妄想をたくましくしてあれこれ考えてみると既存の理論をうまく整理できるような気がしてなかなか楽しいものである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます